東京ふうが 21号(平成22年 春季号)

『水郷の風土』余聞 9

印旛沼の龍神

高木 良多
三田きえ子氏主宰月刊誌「萌」平成二十二年二月号の「最近の一書紹介」欄で同誌の藤本也風氏が私の『水郷の風土』に寄せてつぎのような論評を加えている。
同氏は先ず冒頭において「旅好きを自称する著者が、その旅の中で集めた資料をもとに水郷地帯(主として茨城県と千葉県)を克明に辿り、地誌的にまとめられたのが本書である。我々俳句に関する者にとって嬉しいのは、俳人の目を通した地誌であるという点ではなかろうか。」と前置きした上で、先づ第一に、

驚いたことの一つに「壬申の乱」がある。壬申の乱と言えば大和畿内での話と思っていたが、乱に破れた大友皇子は妹(藤原鎌足の娘)の縁で、鎌足ゆかりの地、千葉県の君津に逃れてきたとのこと。けれども大海人軍の追撃が厳しく、この地で大友軍は皇子以下全員切腹させられたという。

とあった。つぎに第二に

天慶二年の平ノ将門の乱では、朱雀天皇は寛朝大僧正に命じて朝敵降伏の護摩を修めさせたという。乱の後、祈祷地に堂宇が建立され、寛朝を開山として新勝寺と名づけられた。今の成田山新勝寺である。とは初めて知った。

とあり、この二点について論評を加えられていることである。
天智天皇は壬申の乱がはじまる前に亡くなっているのであるが天智天皇を支えてきた重臣の藤原一族はほとんどが天武天皇の勢力によって抹殺されてしまったから無理もないことである。
しかし、天智天皇の娘が天武天皇に嫁いできて、天武天皇亡きあと持統天皇になったことを機縁に藤原鎌足の子、藤原不比等が重臣に採用された。藤原不比等は「天武天皇の遺志を継承しましょう」という顔をして律令制度の整備に邁進することになったのである。
起死回生のチャンスといおうか、ここに藤原一族は勢力をもりかえし、明治維新にいたるまで律令制度の根幹が活かされ藤原千年の基礎が築かれていったのである。
また平ノ将門は桓武天皇の皇孫で二代を置いた系累に高望王という親王がいて、平姓を賜って臣籍に降下、その子良持が五子を生み、将門はその長子でありながら一族の争いにまきこまれ、その争いが天慶の乱にまで発展、藤原秀郷、平ノ貞盛らに取り囲まれ、一族が滅亡してしまった中心人物である。
この平ノ将門も徳川の世になって江戸市民の厚い懇請によって、今は東京千代田区外神田にある神田明神に将門神社が併設され、いまは誰一人知らないものはないくらいに復活し、神田祭などによって一般市民に親しまれてきている。
かくして藤原の系累も平ノ将門の名声もかろうじてその名譽を恢復し得たのであるが、古代史の中で、いまだその後の運命がさだかでないのが蘇我一族のことである。
(つづきは本誌をご覧ください。)