東京ふうが57号(令和元年春季号)

寄り道高野素十論 27

蟇目良雨

 ─ 素十と虚子の親密さ ─

 素十が椿の父親とすれば、虚子にとって素十は義理の息子に当たる。
世間体としては隠しているだろうが普段の何気ない付き合いの中に、親子の甘えのようなものが出るはずである。昭和5年以後、虚子の死に至るまでこうした関係はつづいたものと思われる。以下に当時の目撃者の証言を拾ってみる。

 始めに虚子のスポンサー的存在であった赤星水竹居の証言を見てみよう。
赤星水竹居著『虚子俳話録』のなかから素十の虚子に対する言葉遣いや態度に関するものを拾ってみた。

 昭和七年六月四日
ある日虚子先生の御馳走で、五六人鳥鍋をつついての話の中に、何を感じたか素十が「こんな気持のいい集りは、先生が死んだら再びあるまいなー。」と言うと、先生。「その時になるとまた自然にできますよ。子規が生きていた時分も、ちょうどこんなでしたよ。」と言われた。

昭和七年七月十八日
ある日の問答。
素十問う。「〈又一つせんべいの蠅五家宝へ 素十〉この句は先生の選にもれたが、品の悪いところがいけないんですか。」
先生曰く。「品もよくないが、それよりも正しい興味でないように思われてとらなかった。もっとも一概には申せぬが。」

昭和七年九月十四日
素十問う。「〈月見草莟の先の花粉かな 素十〉先生、この句の〝莟の先きの〟としたが〝莟の先きに〟と、どちらがいいでしょうか。」
先生曰く。「〝に〟の方がいいでしょう。莟の先に花粉があることが、はっきり印象されます。」

昭和七年九月十六日
城西の清風庵に、虫を聴く句会が催された日のことであった。句会がすんでから、先生に入選句やその他の句につき感想を聞いた。
素十問う。「〈朝顔のしぼみし花の葉に沈み 立子〉この句はいい句だと思ってとりましたが、先生はおとりになりませんでしたね、いかがです。」
先生曰く。「とってもいい句でした。」
たかし問う。「〈門内に入れば欅の秋の空 素十〉この句は、門を這入って、空を仰いで、そこに更に新天地を見出したような心持がよく描けていると思いますが、いかがです。」
先生曰く。「そうです、とりましたが今日の句の中でのまずよい句です。」
たけし問う。「〈蜻蛉のとき〳〵光る許りなり たかし〉この句は如何ですか。」
先生曰く。「描写が確かでないからとらなかった。」
某問う。「〈唐黍の葉より末枯れはじめけり たけし〉この句はいかがですか。」
先生曰く。「陳。」
某問う。「〈巻きあげし簾の下に坐りけり 立子〉この句はいかがです。」
先生曰く。「これだけでは、趣を成すに足らぬ。」

ここには虚子にづけづけと質問をする素十が描かれてる。特に「こんな気持のいい集りは、先生が死んだら再びあるまいなー。」と発言する素十の無防備さは周囲のものがハラハラして聞いていたことだろう。
赤星水竹居は水原秋桜子著の『高浜虚子』に出てくるように虚子のパトロンの一人で、丸ビルの実質的な運営者であった。昭和六年秋に、秋桜子が「ホトトギス」を脱退する覚悟を直接話した相手が水竹居であった。素十と秋桜子の仲の良さを熟知し、虚子と素十のただならぬ関係も知っていた古参の同人であったからこそのものの見方が文中に溢れている。

次の例は、志摩芳次郎著『現代俳人伝』二(大陸書房)「明治・大正・昭和の巨匠たち ― その生活と芸術のすべて」から引く。このシリーズには高野素十の項はないが「水原秋桜子」の項に、素十のことが詳しく描かれている。
著者の志摩芳次郎は1908年(明治41年)鹿児島生まれ、旧制高商中退。石田波郷門、「馬醉木」「季節」「河」「秋」に参加し、波郷主宰「現代俳句」角川書店「俳句」の編集にも携わったことがある。
「春耕」の女流俳人多摩茜が「おじさん」と言ってよく話題にしていた。


(つづきは本誌をご覧ください。)