東京ふうが58号(令和元年夏季号)

曾良を尋ねて(41)

乾佐知子

119 『奥の細道』素龍本に関する一考察 ⑶

前稿で紹介した経緯を辿った後に『おくのほそ道』の素龍本は、去来の手に渡った。今回は2月に内海良太氏より送られたレターメールをもとに、石田信夫氏の新聞記事の「素龍清書本の伝来について」の内容を、要約してお届けしたい。

念願の『おくのほそ道』の清書本を手にした去来は、生涯家宝として大切に保存していたが、没後は去来の母の実家である久米升顕のもとに贈られた。生前、去来も一時は叔父である升顕の家に養われていたことがあり、去来の形見として譲られたという。

その後この久米升顕の娘が若狭小浜の吹田几遊のもとに嫁ぐ際に、その引出物として吹田家に渡ったが、不幸にも几遊若くして亡くなった為に、宝暦九年(1759)末亡人より縁戚の白崎琴路に譲られた。

琴路は敦賀の西福寺住職の甥で6歳の時に白崎家の養子となり、白島山人、錦渓舎とも号した俳人である。琴路は吹田家から譲り受けたこの素龍清書本を非常に喜び、漆塗りの箱に納め大切に保存したという。更に琴路は金ヶ崎金前寺に芭蕉句碑(鏡塚)を建立して、芭蕉の遺跡保存や顕影に大きな力を尽した。敦賀新道野の西村家は遠く村上源氏の出と伝えられ、藩政時代には女留番所を務め、名字帯刀を許された格式の家柄である。十代目西村孫兵衛は鶏群舎野鶴と称し、俳人として活躍した。野鶴の息女が白崎琴路の孫の荘次郎長顕のもとに嫁いだ縁をもって、琴路が亡くなったあと、荘次郎より西村家に「素龍清書本」が贈られ現在に至っている。

西村家は代々風雅の家系にあり、著名な俳人も輩出しているため、この清書本も今日まで紙魚の害を受けることなく大切に保存されてきた。

昭和9年7月に福井県敦賀郡郷土史研究会の山本計一氏や吉田元氏らによって「大阪毎日新聞」より、西村家の古文書調査中に見つけたものと報道された。

芭蕉の二百五十回忌にあたる昭和18年に芭蕉研究の頴原退蔵博士によって学界に報告され、昭和23年に複製本が出版されたのである。これが芭蕉所持本、あるいは西村本と称されるものである。

芭蕉没後、250年を経て『おくのほそ道』の清書本を発見し、眼のあたりにした先人の研究者の方々の感激はいかばかりであったろうか。

「袱紗に包んだ黒塗りの簡素な木箱におさめられ、題簽は表紙の中央に貼ってある。白地に金の真砂が散らしてあり、『おくのほそ道』と記された文字は紛ふ方なき芭蕉の自筆である。芭蕉がこれを去来に形見として譲ってから二百五十年 ……(後略)」(石田信夫記事より)

芭蕉の偉業は多くの心ある家々の家宝として代々何百年に亘って保存されてきた。結果歴史的な文化遺産として、学界のみならず広く後世の日本文学に与えた功績は計り知れない。次回は芭蕉自身の筆と70数ヶ所に及ぶ貼り紙の訂正本、野坡本について語りたい。


(つづきは本誌をご覧ください。)