東京ふうが60号(令和2年冬季・新年号)

寄り道高野素十論 30

蟇目良雨

これまで素十俳句を論評する文章をいくつも読んで来た。結論はこうだろう。

一、ホトトギス関係者は素十を褒める。
二、馬醉木の関係者は素十俳句を貶す。
三、それ以外の人は素十を東洋的とする。

つまり、虚子の拠り所である東洋的な美意識の中で素十は評価され、西洋詩論からのアプローチでは秋櫻子が言うように「自然の真」はあるがそれは未だ鉱のままであると低く見做される論評であった。
ここに西洋詩論の観点から素十俳句を称賛する文章を見つけたので紹介する。この文章は「俳句」昭和27年6月号に掲載されていた手塚富雄の書いた「高野素十のこと」というものである。
手塚富雄は当時東京大学教授で五十歳のドイツ文学者である。俳句は虚子のホトトギスに学び、檜山哲彦氏によると虚子俳句のドイツ語訳が「手塚富雄全集」にあるはずだという。「高野素十のこと」はYさんに頼まれて書いたと文末にある。Yとは山本健吉なのだろうか。

「俳句」昭和27年9月号に山本健吉、水原秋櫻子、石田波郷の鼎談が掲載され、ここでは「現代俳句の出発」といテーマで三人が話し合っている。
大正の蛇笏、石鼎、普羅のホトトギスの精鋭から始まり秋櫻子、素十、誓子、青畝の四Sを通過して、素十と秋櫻子の対立の問題と秋櫻子がホトトギスを抜けてからの新興俳句へ突入した辺りの経緯が詳しく論じられている。
素十との対立に関しては
「俳句以外の点では素十と非常に合いますが、素十の俳句の真似をする者が大勢出てそれが秋櫻子の俳句に難癖をつけるので自然と対立した」と述べ、
新興俳句に関しては
「ホトトギスを出て少し有頂天になって皆で勉強することを怠って、俳句の近代性というものに対峙して論争が行われなかった」ことを認めている。
この辺りは飴山實のヘボ筋に入ったという意見を自ら認めているようで面白い。また、京大俳句事件にも突っ込んだ話があり 興味のある方は読んでほしい。

さて手塚富雄の文章で素十を改めて見直したことは、もっぱら東洋的という範疇で評価されてきた素十俳句が、西洋詩の観点からもリルケの事物詩に一致する面白さを持っていると指摘し「私はたびたびリルケと素十を並べて考えることがある。この二詩人の質の相違は、性急な類似観だけでは片づけられない多くの問題を持っているが、事物詩と言われるリルケ詩の一面においては、両者は、時々不思議な一致を見せる。両者とも息のかよいを求めてカロッサの言うヨーガ的集中を実現しているところがある」と論じている。
西洋詩からのアプローチで素十論を読んだことは初めてなのでここに紹介した次第である。
素十俳句が、時代が移り変わっても不変な価値を持ち続ける基底部を成している論かもしれないと思い、私も少し勉強したいと思う論文であった。

高野素十のこと

手塚富雄

「俳句」昭和27年6月号

どうかしたはづみで、「俳句をつくるのか」と私は人にきかれることがある。この問ひは私の顔の皮下組織に、多少の血を呼びあげるようである。私は、「いいえ、前にはそのまねをしたことはありますが、いまはやつてをりません。いや、いやになつたというのではなく、ひまがなくなつたのです。俳句をつくるとなれば、やはりたえず俳句のことを考へていなくちやだめのようですからね」こんなふうに答へるのが常である。もうすこし私のロがおしやべりになつてゐるときは、こんなことをいひだすこともある。「私は自らの俳句については、なに一つ自慢することはありませんが、ただ私の先生はえらいので、これだけは、たぶん自慢のたねにしてもいいでせうね。」かういふと、たいがいの相手は問いをかさねて、私のそのえらい先生の名をきかうとする。それにたいして私のもち出す高野素十といふ名を相手は知ってゐたり、知らなかったりするが、どちらかといふと、知らないはうが多い。知ってゐる人は、「なるほど」といって、私の自慢をうべなうやうな表情がある。素十さんは芸術院会員の候補に推せんされたさうですよ。と私の知らないことまでいふ消息通がある。だが知らない人に、高野素十といふ人の説明をするのはなかなか骨で、食べもののうまさを食べない人に説明をするようなところがある。しかし、虚子の高足であるとか、昭和の去来といへる人でせうとかといふレッテル的表現では説明者自身が満足しないから、たいがいのばあい、私は自分のおぼえてゐる素十句を二つ三つひろうすることになる。


(つづきは本誌をご覧ください。)