東京ふうが62号(令和2年夏季号)

素十俳句鑑賞 100句 (1)

蟇目良雨

《修行の道としては初めから大作などを描こうという気を起こさずに先ず、一木一草一鳥一虫を正確に見るということが必要である。》素十


自然の営みの前に素直な観察眼で接するこの態度こそ素十の俳句の柱をなすものであり、私達現代俳人がややもすると忘れがちな態度ではないだろうか。
以下、素十の句の鑑賞を行い、時代を超えて尚も訴えかける力の源に迫りたい。読み進めて行くうちに「調べのよろしさ」の虜になるはずである。一見、ぶっきら棒に見える素十の俳句にある調べの良さを楽しむだけでも素十俳句を読む価値があると思う。そして、その後ろに、虚子の大きな影を見ることになるかも知れない。素十は虚子の残した偉大な遺産と言えるだろう。
また、俳句の「調べ」は音楽であり、ここに日本人の内奥を癒す愉悦が密かに組み込まれていることも感得するに違いない。
素十が生涯に作った句は5千数百で、現在は『自選高野素十句集』に残された2千5百余の句が良く知られている。さらに選を重ねたものに『高野素十句集 空』(ふらんす堂)がある。これは高野素十が生涯に作った5千数百句の中から、後継者である倉田紘文が素十の欠かせない名句として350句を抜粋している。
私は私なりに絞り込んで百句の鑑賞を試みた。以下その鑑賞である。製作年代が前後するかもしれないがお許し願いたい。また表記は原句に忠実に行ったので、現代の人は違和感があるかもしれない。

句の次の数字は制作年月示す。    昭和27年まで高浜虚子選

甘草の芽のとび/\のひとならび
昭和4年6月

草の芽がとびとびに一並び見える。その一並びは雑然そうに見えて規則性がありそうだ。よく見ると甘草である。甘草なら一本の地下茎からとびとびに芽が地上に出ることが納得できる。自然の摂理は甘草にとびとびの一並びの芽生えを強いているようだが、同時に、「とびとびのひとならび」という楽しみを与えてくれている。
「草の芽俳句」の代表として反「ホトトギス」陣営から集中攻撃を受けたこの句はあれから80数年たった今日においても輝きを失わない。真理をきわやかにさせるには雑物を取り除かなければならない。そうして初めて隠されている真理が表面に出てくる。削ぎ落とすこの作業は俳句を作る作業と同一である。
最近、甘草は当時日本には生息しておらず、萱草の見間違いだろうという説が出ているが虚子選を受けており、虚子の朝鮮半島や中国大陸での体験が認めた作品としてこのまま受容していいのではないか。

(つづきは本誌をご覧ください。)