東京ふうが63号(令和2年秋季号)

曾良を尋ねて(46)

乾佐知子

134 曾良の終焉に関する一考察 Ⅰ

曾良の生涯を通して謎が極めて多い人物であることは、以前から何度か申し上げている。しかし何といっても最も難しい謎は彼が突然迎えた終焉ではなかろうか。つい十日前に対馬国の案内人三浦貞右衛門に対して物申していた人物が、十日後に何の前触れもなく突然死亡する、という事実に当惑するしかない。実は、5月22日は曾良が死亡したとされている日である。はたしてこの事実は本当(?)であろうか。
壱岐の郷土史家である山口麻太郎氏もこの曾良の死亡説については高い観点から克明に論説しておられるが、やはりこの終焉の謎については明確な結論を出すには至っていない。(昭和34年「太白」復刊第138号)
では、この22日壱岐では一体何があったのかを再び三浦貞右衛門の日記から見てみたい。

 

5月22日曇。早朝2時より東風嵐。
上使(巡見使)壱岐に御滞留に付、御国(対馬)よりお見舞のため見舞状を持つて、鉄砲役の波右衛門が巳ノ刻(午前十時ごろ)対馬からこの風本へ到着。(中略)御用人を通じて御口上を申し上げ御状箱を差し出したところ、御三人様(巡見使の小田切、土屋、永井)一緒にお会いなされ御挨拶があつた。(中略)。 速水七之進、病気快気なさり、今日面談。

 

以上であり、この他の件は一切記載されていない。特に最後の一行に速水七之進の病気快気とあるが、速水七之進は旗本小田切靫負の家老である。家老の病気を記録する人物が、用人の死亡に気付かぬはずがない。用人といえば家老の次の地位であり死亡なら一大事である。この文面から察するに、やはり曾良の死亡は22日には有り得なかったと考えるのが妥当であろう。
その後の三浦氏の日記からは、巡見使が26日に対馬国に渡り、6月12日に五島を目指して出発する間、再三に渡って〝御用人〟という言葉は出てくるが、個人の名前を明記したものは、岩波庄右衛門と会った一回だけという。その間用人の死亡を思わせる記事は皆無だそうで、三浦氏の気付かない所で曾良は姿を消したことになる。
この三浦貞右衛門の日記による一連の貴重なる参考文献は、村松友次氏の著書になる『謎の旅人・曾良』によるものであるが、当文書の掲載については地元の長崎県立対馬歴史民俗資料館長の中山恒夫氏の御許可をいただいたそうで、更にこの諸記録の解説は長郷嘉寿氏の御教示を得られたという。御両名のご尽力に対し先生も別途御礼の言葉を述べている。
この日記を公開することは、即ち歴史の事実に背を向けることになるかも知れず、大変勇気のいることだったと思うのだ。長年の間歴史上の真実とされてきた曾良の壱岐死亡説に一石を投じることになるわけで、大変な決断であったと思われる。
では突然消えた曾良は一体どこへ行ったのか。次回より私なりに検証してゆきたい。

(つづきは本誌をご覧ください。)