東京ふうが65号(令和3年春号)

コラム はいかい漫遊漫歩 『春耕』より

松谷富彦

132 鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春  宝井其角

 俳聖芭蕉に〈 門人に其角、(服部)嵐雪あり〉(『桃の実』)と言わせた蕉門十哲の筆頭俳人、其角は大酒飲みだった。〝歴史探偵 〟こと半藤一利さんは自著『其角俳句と江戸の春』(平凡社刊)で〈人柄もひとしお変っていた〉と書き、文化十三年(一八一六)刊行の『俳人奇人談』(竹内玄一著)から引く。
「其性たるや、放逸にして、人事に拘らず、常に酒を飲んで、其醒たるを見る事なし。ある日ふと詩人の会筵に行合せ、人々苦心しけるを、其角傍に酔臥し、仰ぎ居たり。己れ一秒句を得たりと起きあがりていふ、仰ギ見ル銀河ノ底ト」
〈いつも酔っぱらっていて、正気のことがない。しかも、よいつぶれているのかとみれば、いきなり名句を吐く。才気煥発さで他の追随を許さず、独歩独往の境を確立…豪放磊落、酒を愛し、遊里を愛し、そのうえに権門富貴に気儘に出入り。ただし、卑属に堕するようなことはなかった…〉と半藤〝歴史探偵〟。
このはちゃめちゃに蕉門の門弟たちが眉をひそめ、疎んじたのもむべなるかな。だが、師は門人評に耳を貸さず、終生一番弟子を理解し、庇い続けた。
〈「師と晋子(筆者註:其角の別号)と、師弟は、いづれの所を教へ、習ひ得たりといはむ」と問う(森川)許六に、「師が風、閑寂を好んでほそし。晋子が風、伊達を好んでほそし。この細き所、師が流なり。こゝに符号す」と答えたというあたり、さすがに芭蕉。(向井)去来、許六にせよ、同門諸生のほとんどは其角独特の難句を持て余すのみならず、その細みその伊達風を心底理解できなかった。〉と俳誌「黎明」主宰、江戸俳諧考証家、詩人の加藤郁乎さん(平成二十四年没)も自著『俳諧志』(岩波現代文庫)に記す。
〈かたつぶり酒の肴に這はせけり〉『いつを昔』にある其角三十歳ころの詠句だが、加藤さんは〈かつて、かようの酒興風流気をさりげなく言い取った例があっただろうか。一種枯れ寂びた風の捌き軽みにおどろく。〉と書く。
『末若葉』『五元集』から酒の句を三句。〈十五から酒を飲み出て今日の月〉〈草の戸に我は蓼くふ蛍かな〉〈酒を妻妻を妾の花見かな〉
草の戸の句は其角二十二歳の詠だが、芭蕉が若き弟子の大酒を戒め、飲酒起請文を書かせ、対句として詠んだのが〈朝顔に我は飯食ふ男かな〉の句。弟子の身を気遣った芭蕉は、その十三年後、旅先の大阪で門人たちに見守られながら〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉の辞世の句を遺して五十歳で没した。
元禄七年(一六九四)陰暦十一月、知らせで駆け付けた其角は墓所の義仲寺で催された初七日追善俳諧に〈なきがらを笠に隠すや枯れ尾花〉の発句を詠む。集まった門人約四十人による追善歌仙の巻頭にこの句が据えられ、後に『芭蕉翁終焉記』と合わせた追悼句集が編まれ、其角によって『枯尾華』と命名された。
其角句から酒を詠んだ四句を記す。
朝ごみや月雪うすき酒の味
酒買ひにゆくか雨夜の雁ひとつ
酒の瀑布冷麦の九天より落るならむ
酒ゆえと病を悟る師走かな

(つづきは本誌をご覧ください。)