東京ふうが70号(令和4年夏季号)

歳時記のご先祖様 4

本郷民男

─ 『荊楚歳時記』上 ─

歳時記という名が付いた最初の本がこれです。そして、漢族本来の古き良き時代の年中行事などがわかる点で貴重です。

〇まずは、南朝の梁の歴史から

荊楚けいそ歳時記』の著者である宗懍そうりんは梁に仕えた官僚です。梁の最後の都が荊州にあった、戦国七雄の楚の故地ということで、『荊楚記』というのが本来の書名だったようです。漢が滅んだあとの中国は、三国時代、五胡十六国と分裂を究めた後、漢民族の南朝と拓跋たくばつなどの異民族国家の北朝が対峙する、南北朝時代になりました。

南朝は420年に建国の宋から斉・梁と王朝が変わりました。梁は502年に蕭衍しょうえんが建国し、武帝と追贈されました。都が今の南京の建康で、文化が花開きました。王侯貴族は文学に熱中し、武帝の長男が『文選』を編纂しました。武帝は儒教や道教にも通じて著述や講義をするほどで、最たるものが仏教です。建康には多くの寺院があり、宮殿のすぐ北に同泰寺を建立しました。九重の大塔が「盤は雲表の露を受け、鈴は天上の風に揺らぐ」と称えられました。

武帝は何度も同泰寺に自身を捨身しました。莫大な寄進をして仏事を行い、自身を寺の奴隷として寄進するのです。やむなく皇族や貴族が銭一億萬といった膨大な金品で、武帝を買い戻します。皇帝に戻った武帝は、改元して政務に復帰します。ところが、候景の乱がおきました。候景は北の東魏の武将でしたが、梁に帰化して大将軍となりました。この候景が武帝の甥を担いで謀反を起こし、幽閉された武帝が五四九年に死去しました。候景の乱を鎮圧し552年に即位したのが、武帝の七子の元帝です。元帝は、荊州刺史などを歴任していたので、戦乱で破壊された建康ではなく、荊州を都としました。ただし、荊州とする文献と、江陵とする文献があります。今でも荊州市の中に江陵県があるように、二つの地名が福岡と博多のような使われかたで混乱します。城のある中心部を江陵、広くとらえると荊州と呼んだようです。

〇著者の宗麟はどんな人

 『梁書』に四一巻の王規伝の付録として、簡単な宗懍伝があります。『周書』三四巻と『北史』七〇巻に独立した宗懍伝があります。宗懍の八代前の宗承が宜都(現湖北省宜昌市)群守になったので、代々江陵に住むようになりました。荊州・江陵も湖北省で、長江をかなり遡った所です。
 宗懍は保定中(五六一~五六五)卒とあり、『周書』では六四で死んだとあるので、五〇〇年前後に生まれました。幼児から聡明で読書に励み、「小児学士」と呼ばれました。五二五年に秀才に挙げられましたが、その時は仕官しませんでした。しかし、翌年にまだ湘東王であった後の元帝が、荊州刺史として赴任して、当地には人材が多いから有意の少年を挙げよと命じました。これには従い、王府記室という秘書官になりました。以後は、元帝の側近として県令等を歴任しました。宗懍は母が亡くなった時に喪に臥すために一旦退官しました。また、父が犯した罪をあがなうとして、生涯にわたって採食を貫きました。元帝が即位すると、宗懍は吏部尚書という大臣にまで昇進しました。ところが元帝三年目の五五四年に、西魏の攻撃で梁が事実上滅亡し、元帝は殺されました。武帝は仏教で国を滅ぼしたような文化人で、太陽のごとき建康の都も武帝とともに滅びました。元帝もまた詩文に優れ、図書を収集しました。月のような荊州の都も元帝とともに滅び、元帝は書庫を自ら焼かせました。
 北朝は人材に乏しいので、梁の高官や学者を大勢長安へ連行しました。もっとも、宗懍程の人は礼を尽くして迎えられ、車騎大将軍などに任命されました。最晩年の宗懍は退官し、著述などに従事しました。


(つづきは本誌をご覧ください。)