東京ふうが61号(令和2年春季号)

曾良を尋ねて(44)

乾佐知子

128 六代将軍徳川家宣について

芭蕉墓参の旅から帰った曾良の動向は、その後ほとんど手がかりがない。江戸に戻ったとしても今は師の吉川惟足はいない。今迄通り本業である神職の仕事をしていたと思われるが、親とも頼る二人の師の相次ぐ急逝と松平藩の断絶という衝 撃は、曾良の人生において最も試練の歳月であったと思われる。
時は流れて突如日本の歴史が動いたのは六年後の宝永6年(1709)1月15日のことで、五代将軍綱吉が64歳で世を去った。
この綱吉が将軍に就くに当り起った一連の騒動を、以前拙稿でも詳しく述べた が、当時権勢をふるっていた酒井忠清の失脚に際し、伊奈半十郎の機転により身の危険をさける為芭蕉が深川に移ったことは、芭蕉のその後の人格形成や俳諧への大きな功績への遠因ともなっているといえよう。
綱吉の約30年にも及ぶ独裁政治もようやく終息を迎え、六代将軍家宣の世となった。
家宣は父が家光の三男で甲府藩主綱重だった。しかし母が側室であった為家老の新見正信に養育され、新見左近と称した。15歳で元服し綱豊と名のり、17歳で父綱重の死後甲府25万石をついだ。
綱吉はこの綱豊を後継ぎにすることを極度に嫌ったが、水戸光圀や柳沢吉保の意見もあり認めざるを得なかった。綱吉死後、家宣は48歳で将軍となり歴代最年長の即位であった。
即位後先ず手をつけたのが、庶民を苦しめた「生類憐れみの令」を廃止することだった。当時中野にあった犬小屋は大久保から四ッ谷近くまで広がり、その数8万2千頭に及び費用は年に9万8千両(いまの数十億円位)に達していたという。 それらの費用はすべて町民や農民に負担させていた。
家宣は綱吉が死んだ七日後に「大赦令」を出し、これにより犬を虐待したとして牢に入っていた8千6百人が解放された。
さらに、赤穂浪士の遺子で島流しになっていた者達も赦され、出家していたもの達も還俗をゆるされた。江戸市中に喜びと安堵が広がったことはいうまでもない。
  鶴は飛び亀は子を産む世のなかに
     甲府(家宣)万年民はよろこぶ
町のあちこちにこのような落首が張られた。
家宣は綱吉時代に権勢をふるっていた老中格の柳沢吉保を失脚させ、悪貨鋳造をはかった荻原重秀をしりぞけた。そして御用学者として甲府時代の師である新井白石を据え、側用人に間部詮房を登用した。二人は次々と政を刷新し、代官腐敗の厳正対処により年貢を前年よりも43万3千俵も増やすことに成功した。こうした家宣の時代は「正徳の治」と呼ばれ、江戸にようやく平和な時代が戻った。
宝永7年(1710)正月、曾良の故郷諏訪に江戸から一通の便りが届いた。それは、曾良が幕府の巡見使の随員として任命され、春には九州方面へ出発する、という便りだった。
次回はこの巡見使について検証してみたい。


(つづきは本誌をご覧ください。)