東京ふうが63号(令和2年秋季号)

素十俳句鑑賞 100句 (2)

蟇目良雨

(6)

くもの糸一すじよぎる百合の前

昭和12年10月

素十の代表句の一つである。百合の花の前を蜘蛛の糸が一筋横切っているというそれだけの光景である。

 蜘蛛の糸が垂直によぎれば芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を連想する読者もいるし、斜めによぎれば風に流される蜘蛛の様子を思い浮かべることも出来る。いずれの場合でも、百合の花とその前で生きている一匹の蜘蛛との関りがあるようで、関りのないような日常の一こまである。それぞれがそれなりに生きている静かな夾雑物のないこの花鳥諷詠の世界には宗教画の趣が感じられる。

(7)

ひつぱれる糸まつすぐや甲虫

昭和13年10月

甲虫が糸に縛られて必死に糸を引っ張っている様子を描いている。甲虫同士が糸に結び付けられてお互いに引っ張っているのかも知れぬ。子供の玩具になっている場合もあるだろうし色々な光景が思い浮かぶ。よく見たことのある光景である。

 糸につながれた甲虫を観察しているうちに糸がぴんと張り詰めた一瞬を素十は見逃さなかった。そして掲句が生れた。「糸まっすぐ」に甲虫の力を感じることが出来る。これが写生の力だ。

 この句を見るたびに俳句という小さな器に盛ることの出来る可能性に思いが至り、同時に、五七五の極小文芸が描き得る世界の澄明さに感心するのである。

 この句は素十の故郷、山王中学校創立十周年記念式典で来校した時に土産として持参した句と言われている。中学生諸君に甲虫が一生懸命糸を引っ張っているのと同じようにひたすら頑張りたまえとエールを贈っているように読めないこともない。

(8)

食べてゐる牛の口より蓼の花

制作年不詳

単純明快な句である。食んでいる牛の口の中から蓼の花が出てきたという小さな驚きを表現している。この小さな感動を現代人は見過ごし勝ちである。手品のように口の中から蓼の花を出した牛に単純に感動する素朴さから俳句は生れてくることを知った人は幸せである。

 牛に四つの胃袋があり、時間をかけて牛が反芻している生物学の知識は振り回しても俳句の鑑賞には余計というものである。眼前のものに素直に驚けばいい。


(つづきは本誌をご覧ください。)