季刊俳誌東京ふうが通巻22号

東京ふうが 22号(平成22年 夏季号)

曾良を尋ねて 5

松平定政と大智院

乾 佐知子

養父母を失った曾良は伊勢の長島で大智院の住職をしている伯父の良成法師を頼って諏訪を旅立った。それは12歳の時とか又は19歳の時とかいわれ、実際には何歳の時であったかはよく分っていない。実は、曾良の出生に疑問を持った私が次に感じたのは伊勢の「大智院」についてである。
大智院は真言宗でもともと宗堅寺という長島藩主の菩提寺であったが、藩主の栘封により廃寺となっていた。そこに寛永12年(1635)長島藩主となった松平定政が藩の祈願所として創建したのが大智院なのである。
松平定政は父親が徳川家康の異父弟の松平定勝(伊勢桑名藩主)でありその六男として慶長15年(1610)山城の伏見に生れる。
従って忠輝とは偶然六男同志の従兄弟という間柄であった。忠輝の方が17歳年上であるが、二人の間では当然以前から何らかの情報交換があったと推測される。
定政は寛永3年(1626)に三代将軍家光の小姓となった後、同12年24歳の時に伊勢長島六千石を領した。入封後は城の整備や寺の再建につくした。その時に廃寺となっていた大智院を創建したのである。然し、慶安4年(1651)家光が死亡して、家光の長男である11歳の家綱が四代将軍になると、能登入道不白と改称して出家した。その際にとった一連の行動は幕府を痛烈に批判するもので、慌てた幕閣により所領は没収され、伊予松山藩主であった兄の定行に預けられた。
寛文12年(1672)63歳で病没、兄と同じ常信寺に葬られた。家康の甥としてやはり波乱な生涯を送った人物といえよう。
その大智院に曾良は預けられたわけだが、いかに住職の甥子といえどもこの様に由緒ある松平家の菩提寺に、身なし子に近い子供が容易に受け入れてもらえるものだろうか。まして住職の身内であれば懸命に修業していづれ寺の後継者になるのでは…と思うのだが、ところが曾良は寺に居ながらいつしか長島藩に仕官して侍待遇となっているのである。このことは身分階級は勿論のこと他国から来た者に対しては特に厳しかった江戸時代にあっては、いかにも不自然な事と言えよう。

(つづきは本誌をご覧ください。)