東京ふうが 28号(平成24年 冬季・新年号)

曾良を尋ねて 11

芭蕉と仏頂禅師

乾 佐知子

芭蕉は天和3年(1683)の5月に甲州から江戸に戻った。直後の住まいは定かではないが、秋のはじめに「第二次芭蕉庵」が建てられた。素堂の声かけで門人や知人等52名の協力により物品、寄付金総計で銀150匁ほどという。現在の金額で銀1匁は2000円程度というから大ざっぱに換算して、金1両を15万円としても約30万円ほどということになる。これでは到底家は建たないが、恐らく門人杉風の援助があったと思われる。

 庵は深川元番所、森田惣左衛門の屋敷の一角を借り受けたものであった。
六間堀という水路は、南北約1キロあり、幅10メートルで北の堅川へ船が通れるように掘られていた。元禄の頃の江戸地図を見るとこの場所は「松平遠江守」の屋敷となり、更に文久2年(1862)になると「紀伊殿」の屋敷と変っている。現在の住所は常盤町一丁目で小名木川の北端にあたる。
あられ聞くやこの身はもとの古柏 芭蕉

その年6月に郷里の母が没したが葬儀に戻れず、 9月に芭蕉庵再建の日を迎えた。芭蕉40歳の再出発の年であった。
延宝5年(1677)から4年間、俳諧師としての地位もしだいに固まり初めた頃、芭蕉はその傍ら神田上水の浚渫作業の請負の仕事も引き受けており安定した生活をしていた。
然し延宝八年の十二月、突然全てをすてて深川に移住しており、以前も触れたがその不可解な行動と動機については、研究者の間でも見解の分かれる所である。
しかも芭蕉は何故か俳諧師の収入源である点料を取ることも止めており、生活ぶりは清貧を極めた筈である。この深刻な事態に耐えうる精神力に大きな影響を与えたのが芭蕉庵の近くに住む臨川寺の僧侶仏頂であった。

(つづきは本誌をご覧ください。)