東京ふうが32号(平成25年 冬季・新年号)

寄り道 高野素十論

寄り道 高野素十論

その3 俳句初学の頃

蟇目 良雨

この論争は高野素十の立場で言えば、水原秋櫻子側が一方的に仕掛けてきた論争であって、高野素十の代わりに「まはぎ」(中田みづほ、浜口今夜など)の関係者が反駁し、高浜虚子は実名を用いずそれとなく虚子と秋櫻子を暗示させるエッセイを書いて秋櫻子側の怒りに油を注ぐように仕向けた。
素十は一切弁明しなかった。それは心の友人を傷つけたくなかった男の意地にも似ている。
昭和6年に始まった「自然の真と文芸上の真」なる論争を検分する前に秋櫻子と素十の仲のよかった青春時代を覗いてみたい。

時間軸を大正七年まで戻してみよう。

◇  素十俳句を始める

高野素十が俳句を始めたきっかけは虚子が大正4年3月号からホトトギスに連載をした「進むべき俳句の道」をまとめた実業之日本社刊『進むべき俳句の道』が、大正7年に出版されてこれを購読し、原石鼎の吉野時代の作品に感動してからと言われている。
大正2年から同6年までの東京帝国大学医学部学生時代には、まったく俳句には興味を持っていなかったが、血清化学教室に入ったときに出版された大正7年刊の虚子の『進むべき俳句の道』が素十を俳句の道にいざなった大きな役割を果たしたと思われる。
すでに春桐に勧められて東大医学部内の句会「木の芽会」に入って俳句を齧っていた水原秋櫻子もこの頃「渋柿」の俳句にいささかうんざりしていたので「ホトトギス」を購読してさらに『進むべき俳句の道』の中の石鼎、、蛇笏、鬼城、水巴の句を注目していた。

(つづきは本誌をご覧ください。)