東京ふうが36号(平成26年 冬季・新年号)

寄り道 高野素十論

寄り道 高野素十論

その7

蟇目 良雨

前回、姦通罪のことに触れたので、姦通罪で入牢を余儀なくされた北原白秋の例を少し見てみよう。
「 」内の言葉は樋口忠夫氏によるものである。

「若山牧水は、大学で同期入学の北原自秋と出会っている。この二者の歩みには奇妙に似た一面があるので粗描してみたい(参考資料は『北原白秋』三木卓著・筑摩書房刊、『若山牧水伝』大悟法利雄著・短歌新聞社刊)
両者は共に九州出身で、白秋は西部の福岡柳川で明治18年1月に、牧水は東部の宮崎日向で同年8月に、生まれた。共に少年期は(特に白秋は)裕福な家庭で育ったが、長じて親元の破綻・凋落に見舞われた(牧水は19歳・大学入学のころ、白秋はニ25歳・姦通事件のころ)点でも似通っている。
二人が出会った時の様子は、「同宿時代の牧水」という白秋の文章がある(『北原白秋』)。
-明治37年の5月頃、づんぐりむつくりの、一分刈の小男が、私の肩越しに私の見てゐる雑誌を覗きこんでゐるのに気づいた。その男が若山牧水君だつた。そんなことから牧水君と話し合ふやうになつたのだが、一体私は人と話したりするのが嫌ひで、従つてその頃は別に友人といふものがなく、教室の隅に一人で本などを見てゐることが多かつた。そんな訳で私が牧水君と知り合ったのは、私にとつて早稲田で最初の友人だつたやうに思ふ。両者は、その後親しくなり、互いに詩歌を作っていることも分かり、一層親しくなった。また、牧水は、牛込赤城元町の白秋の下宿の赤城館に招かれ、本棚に沢山並ぶ金文字の洋書に驚いたことも記されている。その後、白秋が戸山ケ原近くの〈ひどいバラックの清致館という下宿〉へ引っ越すことになると、牧水も一緒に引っ越して、同宿している。
-その頃の下宿代は間代共9円位で、若山君は13円、私は25円ほど仕送りを受けてゐた。二人とも酒はまだ飲まなかつた。牧水は、9月23日(明治37年)の日記に「夕方、北原君と関口より戸山が原あたりさまよふ。夜、歌のはなし初めて興に入りぬ、君はわが詩兄なり」と記している。白秋は、牧水と同年の生まれではあるが、早くから『文庫』誌の歌壇で活躍し、この頃は歌からやや遠ざかり同誌の詩壇でかなり優遇されていたときで、一たいに文学方面では牧水よりも一歩進んでいた(『若山牧水伝』)。
(つづきは本誌をご覧ください。)