月刊俳誌「東京ふうが」平成27年秋季号通巻43号表紙

東京ふうが43号(平成27年秋季号)

曾良を尋ねて

乾佐知子

75 ─ 清水寺顛末記と芭蕉の書簡 ─

日曜日の浅草は連日の雨のせいか普段より人通りが少なく探索するには好都合だった。数年前に内海良太氏に伺った清水寺は、道具街で有名な合羽橋商店街の喫茶店ソレイユの角を入った奥のマンションの一階にあるとのことだった。
ソレイユの看板を探しながら中程まで進むと交差点際にいきなり大きく「清水寺」という門柱が目に飛び込んできた。路地の奥とばかり思っていたが通りに面して真新しい白壁の建物と竹で組んだ和風の門があり、庭には白い玉砂利が敷かれた落着いた雰囲気の寺院であった。敷地はさほど広くないので、恐らく以前角にあった喫茶店の跡地に新たに建て替えられたものと思われる。
二階が受付になっており、作務衣姿の住職がすぐ対応してくれた。来院の趣旨を伝えると、住職は〝芭蕉のことを聞きにみえる方はかなりおられます〟とのことで、曾良の腰帳の発見以来この寺を訪ねる研究者が多いことが察しられる。しかし住職は続けて〝芭蕉に関する資料は明暦の大火ですべて焼失し、全く残っておりません〟とのことだった。住職自身もそのように信じているとみえ〝一切有りません〟と断言する姿に思わず納得した私は早々とその場を辞した。
ところが後でよく考えてみると明暦の大火は、1657年の出来事で元禄より30年以上も前の話である。その頃芭蕉はわずか13歳でまだ伊賀上野にいたはずである。元禄以後にも大火事は度々あったのでたぶん資料はその時に失ったのであろう。
芭蕉はこの『奥の細道』の旅の間ほとんど手紙らしいものを書いていない。ところが昭和51年、尾形仂氏によって一通の新しい書簡が発見されて学界が湧いた。その手紙は杉風に宛てて出したもので、この旅での唯一ともいえる長文の手紙だった。
小菅を出立してから丁度1ヶ月後の4月26日に上野国那須黒羽に滞在中に出したものだが、この文中にいくつか注目する個所があるので要約して紹介したい。


(つづきは本誌をご覧ください。)