俳句とエッセイ「東京ふうが」平成28年夏季号

東京ふうが46号(平成28年夏季号)

「旅と俳句」 台湾紀行Ⅱ

原住民族の高地と町を訪ねて(2)

石川英子

1・序
2・台北・孫逸仙史蹟記念館     3月20日(日)
3・阿美族と太魯閣族の町花蓮    3月21日(月)
4・太魯閣渓谷へ高地民族を訪ねる  3月22日(火)
5・台東県へ・花東公路山線     3月23日(水)
6・プユマ族の山地・知本森林遊楽地 3月24日(木)
7・台東市から台北市・新北市へ   3月25日(金)
8・孫中山紀念館見学・帰国     3月26日(土)


4 太魯閣渓谷へ高地民族を訪ねる  3月22日(火)

6時起床。バイキング朝食後、7時出発。花蓮駅前のバスターミナルで天祥行きの切符を求めると、天祥の途中で土砂崩れ発生とのこと。時間差の片側通行区間が沢山あり、8便のところ3便となり、次の天祥行きは10時半だと言われた。駅前まで行ってタクシーに乗る。途中の燕子口までの往復で、午後1時までに花蓮駅に戻る約束の内容で、2500元で契約した。

太魯閣(タロコ)国家公園
八時丁度に出発。タロコ峡谷は台湾を代表する景勝地で、峡谷一帯の中央山脈に属する合歓山(3417m)、太魯閣山(3283m)等の山岳地帯は国家公園に指定されており、安野光雅画伯の世界である。険しい断崖は嘗て珊瑚礁の海底だった処が隆起して出来た。石質は大理石である。断崖を浸食して出来た渓谷と、人の手が造りあげた東西横貫道路の間をぬう様に走る。断崖の数十層にも及ぶ石目を浸食して猛り下る川は、上流の山で切り出される大理石の粉沫が溶け込み、濃い灰色の波を立てて流れ、二股の出合いでは、大理石を切っていない山の水が澄み透って、分離して流れてゆく。

【九曲洞の碑】「如腸之図」より
如腸之廻  腸のように廻りくねり
如川之曲  河のように曲がり
人定勝天  人は必ず天に勝ち
開此奇曲  この奇曲を開く

道路工事の際にこの難所に立ち向った勇気ある男達を称えて詠んだ詩である。土砂崩れのため、現在は立ち入り禁止となっていた。
8時半、太魯閣国家公園東西横貫公路に到着。立派な中国風四脚門と石碑の前で、団体客が入れ替り立ち替り写真を撮っている。
「すみません、私一人でいいから写真を撮らせてください。」と言うと、女性達は除けてくれたが、写真には中年の男が一緒に撮れていた。

渓谷遊歩道
30分間の休憩の間、タロコの景勝の山々を堪能し、ザックの雨具を着用。白雲は山襞を這い上ってゆく。長い朱の橋を渡り、橋桁の階段を下って遊歩道の入口に出た。山の巌を刳り貫いて、立山連峰の「下の廊下」の如く作られた細い道を頭上に気遣いながら歩いて行くうち、空がひらけた。タロ藷の群生地やタロコ族の保留地の辺りをひたすら歩く。【観光客は高地民族の住んでいるエリアに踏み込まないで下さい。】と大きな看板が出ている。「いよいよ来たんだ」と感慨深さで胸が熱くなる。岩盤を這う大きな蝸牛や、青や黄色の羽根の美しい小鳥、巨大な山野草の花々に迎えられながら、五間屋地区というタロコの民の奥まった住宅地に出た。崖の上はタロコの住居で、路沿いは簡単な食堂を営み、女性達はいざ躄りばた機という織機で織った民族模様の小物などを棚に並べて商っていた。若い女性から記念にタロコ模様のペンケースを買った。300元(約1000円)だった。その先は立ち入り禁止の立て札と綱が張られていた。
昔のタロコ族は顔に刺青を引いており、刺青の本数は、男子は狩猟の腕前を、女子は織物の達者さを表していた。顔の刺青は代表的な文化であり、成人を象徴すると言われていたが、30代や40代の男女を見る限り、刺青らしき顔の人は見られなかった。日本統治の時代に厳重に禁止され、現在はテレビが入り、学校教育を受ける様になって、その習慣もなくなって来たのだろう。
若い女性が言った。「コレキカイデオッタモノデス。タロコノモヨウ、ミンナキレイ。アリガトウ、サヨウナラ。」
食堂の男性「コンニチワ、アリガトウゴザイマス、サヨナラネ。」皆、澄んだ瞳で言った。昔は山中の部族毎に言葉が違っていて、共通語は日本語だったと。私達も「アリガトウ」をくり返して、タロコの人々に別れた。


(つづきは本誌をご覧ください。)