東京ふうが52号(平成30年冬季・新年号)

コラム はいかい漫遊漫歩 『春耕』より

松谷富彦

(78) 明治天皇の「肉食宣言」と上野精養軒

 書架を整理していたら三十数年前に購入した『江戸たべもの歳時記』(浜田義一郎著 中公文庫)が転がり出て来た。目次を開くと「天皇の肉食宣言」の見出し。「人間宣言」をしたのは昭和天皇だが、「肉食宣言」は、祖父の明治天皇。

 そのいきさつを著者は、明治五年の新聞記事〈我ガ朝(チョウ)ニテハ中古以来肉食ヲ禁ゼラレシニ、恐レ多クモ天皇、イワレ無キ儀ニ思召シ、自今肉食ヲ遊バサルル旨、宮内ニテ御定メコレ有リタリト云。〉を

引き、〈皇室もいよいよ肉食をするようになったのだが、これは一般の肉食ブームが波及したわけでなく、必要に迫られての転換だった。〉と明かす。

 明治天皇は開明的な人柄だったが、私生活ではきわめて保守的で〈写真が嫌い、ガス灯や電気灯は終生もちいず、蠟燭を使ったから、宮中で日常起居された所は煤けて薄黒くなっていたという。だから、バタ臭いものを喜ぶはずがない。琵琶湖でとれるヒガイという魚が大好物で、それにちなんでこの魚に鰉という宛て字ができたが、あっさりしたものがお好きだった。〉そんな明治帝が肉食解禁を宣言したのは、西洋各国との接触が多くなり、宮中の招宴で日本食固守を続けるわけにいかなくなったからだ。ちなみにヒガイは、本来琵琶湖水系に分布するコイ科の淡水魚で大正期に入ってから水産資源として今江潟(石川県)や霞ケ浦など各地に移植された。

 これも『江戸たべもの歳時記』の「精養軒とピェル・ロチ」から引かせてもらうが、天皇の肉食宣言に備えて、岩倉具視は、部下の京都仏光寺の元僧侶で勤王家の北村重威に京橋の土地を与え、西洋料理店を開くよう依頼。宣言の一年後の明治六年にレストラン「精養軒」が開業、四年後には不忍池畔に上野精養軒も店を開き、現在は本店として営業を続けている。当時、客のほとんどが政府高官と外国人だったという。

降る雪や明治は遠くなりにけり  中村草田男

天皇の白髪にこそ夏の月  宇多喜代子


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