東京ふうが53号(平成30年春季号)

寄り道高野素十論 23

蟇目良雨

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俳句作家の個性が、その出生や家庭環境によるということは多くの例が指摘されている。

種田山頭火の放浪の旅は母の井戸への入水にあり、山口誓子の場合は母の刃物による自死により、中村草田男の場合も可愛がられていた祖母の死に関係している。

悲劇の死を遂げたといわれるが杉田久女は、幼少期は恵まれた父母の愛情の中に育ち、結婚後の夫婦のすれ違いが喧伝されて久女の悲劇像が形作られたが、久女の俳句はどれも明るく気高いものであることは生まれの良さによるものであるといえる。

水原秋櫻子も恵まれた環境の中に生まれ育ったために秋櫻子の俳句には影というものが無く明るい。夫婦養子であった秋櫻子の両親は東京生まれであり江戸っ子の持つ向日性を秋櫻子に注ぎ込んだ。

さてそれでは高野素十の場合はどうであったのだろうか。

豪放磊落に見えてかつ細心、一生涯、虚子の花鳥諷詠を遵守した素朴な忠誠心はどこから生まれたものであろうか。

ここに資料から得た高野家の家系を示す。

(図省略)


『評伝 高野素十』(村松友次著)と村松紅花(友次)先生の遺訓めいた話を総合してこれからの話を進める。

先ず、素十には一人の姉がいて不幸な人生を送ったと「素十全集」に記述がある。これが明治19年から明治22年までの間に生まれた姉の「恭」である。

恭は母(ぶん)の最初の嫁ぎ先高野常七の子として産まれたが常七の死後、(ぶん)だけ実家に帰され、恭は連れ帰ることが出来ず高野常七家に置かれて育った。

出戻った(ぶん)は明治25年8月16日池田松五郎を婿養子に取り高野与三郎家を守り、その半年後の明治26年3月3日に素十(與巳)が生まれたと当時の茨城県北相馬郡山王村役場に届け出があったとされる。

入籍後半年しかたたないのに子が生まれたと届けられたことになる。これが疑問の一つ。

母親(ぶん)は45年前に恭を生んでいるので出産能力があることは確かめられた。素十が仮に明治26年3月3日に生まれたとすると、次に次男Kの生まれた明治31年までに5年が経過したことは少し長くはないか。

世の中には子が授からなくて困っている人が多くいることを知っての上でいうのだが、健康な夫婦が結婚して5年間交渉を持って子供が出来ないということは考えづらい。何故ならばこのあと生まれる三男、長女、次女と次男から次女までの4人の子たちは2年おきに計画的に生まれている。母(ぶん)の生年月日は判っているので母の立場からこのことを眺めてみよう。  (後の表を参照)

ぶんの実家高野与三郎家はぶんと弟毅(き)の二人が知られている。家系図で見る通りぶんは長女であるが女であるために家督は弟の毅が継ぐことになっていたのだろう。だからぶんは一族の高野常七に嫁いで農家の主婦になったのだと思う。しかし、後に毅は農業より石油開発に情熱を上げアメリカへ石油掘削技術を学ぶために行った。帰国後長岡周辺で石油掘削を行ったが、石油はほとんど出なかったが石油ガスが噴出し日本天然瓦斯会社の創立オーナーとなった。したがって高野家には農家を継ぐ人がなくなってしまい、たまたま嫁ぎ先で夫に死なれたぶんを呼び戻して跡取りの婿を探すことになったのだと思う。

嫁ぎ先には弟が未婚でいたので、その弟とぶんが再婚することもあっただろうが、実家の農家を継ぐことが必要になったために、ぶんは実家に出戻ったのだと思う。

そのときに姉恭の処遇をどうしたらよいか悩んだと思う。
子連れで戻っても再婚することは問題ないと思われるのは現代の感覚かもしれない。現在は愛情さえあれば連れ子があっても構わない時代かもしれないが明治の初めの時代ではどうであったろうか。これは一概に言えないが姉を嫁ぎ先に置いてきたことには深い事情があったのだろう。

素十は「芹」昭和35年6月号巻頭言に「姉」と題する一文を寄せている。


(つづきは本誌をご覧ください。)