東京ふうが53号(平成30年春季号)

曾良を尋ねて

乾佐知子

105 ─ 山中温泉から敦賀へ ─

 8月5日に山中温泉を一人旅立った曾良が宿泊中の日記ではわずかひと言かふた言の文面だったが、出発後の10日間は毎日天候や距離を克明に記しており、まさに水を得た魚の如く生き生きとした様子が窺える。芭蕉の身辺の警護に気を遣っていた数ヶ月間の重圧から解放され、身軽に自分のペースで思い切り旅を進めることができ、曾良にとって久々の自由な時だったといえよう。

 そのスピードは1日約45キロを走破する勢いで、とても病んでいる人の脚力とは思えない。従って曾良は本当に病んでいたのか?と後世の研究者の多くが疑問を呈している。

 曾良は翌6日も雨にたたられ同じ全昌寺にとまったが、ここで
終宵(よもすがら)秋風聞くやうらの山 という句を残した。翌日ここに着いた芭蕉が「細道」に《一夜の隔へだたり千里に同じ》と曾良に対し別れた寂しさが実感として伝わってくる文章を残している。

 8月7日快晴。全昌寺を発った曾良は大聖寺へ。ここから一里の立花には蓮如が浄土真宗の布教中に休息したという有名な茶屋がある。そこから半里ほどで吉崎、ここから加賀を出て越前領となる。

 今日の目的は西行の歌枕ともなっている「汐越の松」へ舟で渡る。そこには当時一面にあったはずの松林はなく、たった一本残った松が横たわっているだけだった。

 終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松
この歌は当時は西行のものとして流布されていたが、実際は西行のものではなく、蓮如のものという。曾良が街道からはずれここまで来たのは、芭蕉が後日この場所を訪れることを知っていたからである。

 翌8日は日の出(5時42分)と共に宿泊地の森田を出発。まもなく九頭竜川でここには舟橋が架かっていた。48艘の舟を鉄の鎖でつないだ舟橋である。ここから西へ二十丁(200メートル)程行くと道明寺村で、更に福井に向かって進むと新田塚がある。

 このあたりは建武五年(1338)に新田義貞と越前守護である斯波高経が戦ったところである。わずか五十騎の軍勢で黒丸城へ出撃した義貞は、途中で三百騎の敵軍に遭遇し、眉間を射られてあっけない最期を遂げた。

 新田義貞が命を落とした地点に新田塚が築かれていた。曾良はそれを「歌枕覚書」の越前の部の空白にスケッチし、銘文等を書き取っているが黒丸城はすでになかった。やがて曾良は北陸道を福井へ急ぎ向かった。

 翌9日も快晴。未の刻(午後2時頃)敦賀に入る。何はともあれ越前国の一宮である気比神宮へ参拝する。

 曾良がこの3日間に踏破した宿場は約16ヶ所に及び、その区間の距離とかかった時間を克明に記帳しており、曾良本来の几帳面さを存分に発揮しているといえよう。


(つづきは本誌をご覧ください。)