東京ふうが56号(平成31年冬季・新年号)

寄り道高野素十論 26

蟇目良雨

 ─ 清水基吉の素十観─

 25では同時代を生きた杉本零の素十観を記したが、ここでは同じく同時代人の清水基吉の素十観を示してみる。
清水基吉は昭和十九年に『雁立』で芥川賞を受賞した作家・俳人である。清水本人は自分は俳人であると宣言するほど俳句に打ち込んだのである。
昭和六十二年七月から十八回にわたり「俳句研究」に連載した「現代俳句鑑賞」を富士見書房から『意中の俳人たち』としてまとめた中に素十と秋桜子の論争のことが書かれているので参考に読んでみよう。

清水基吉は大正七年生まれで素十や秋桜子とは二十五歳若く、親子の差ほどの年の差がある。一九四〇年(昭和十五年)二十二歳の時に横光利一を知り昭和十六年に「鶴」の石田波郷に師事している。昭和六年の「自然の真と文芸上の真」論争当時の当事者ではないが秋櫻子に師事した石田波郷や「馬醉木」関係者から秋桜子の「ホトトギス」離脱や「自然の真と文芸上の真」論争のことを耳にしていたものと思われる。

 文中で素十のことを直接語っていないが秋桜子が馬醉木を離れるきっかけになった「自然の真と文芸上の真」論争などは虚子の出身地松山でも話題になることはなく、虚子のホトトギスを頂点とする俳句王国の中の一出城と考えられていた馬醉木で研鑽を積んでい五十崎古郷にしてみればホトギスで活躍する場を失うように秋桜子によって梯子を外された感があり茫然自失した様子などが描かれている。我田引水かも知れないが昭和六年の「自然の真と文芸上の真」論争は俳句界全体の問題でなく秋桜子と虚子のプライベートな論争であったと考えたほうが素直な解釈だと思う。
要するに秋桜子がホトトギスを脱退することが一大事であったのだ。「自然の真と文芸上の真」論争はその隠れ蓑と考える私の意見に近いと考えるのは早いだろうか。

集中「煩悶と諦念ー芝不器男・五十崎古郷」より少し長いが、以下引用する。

寝待月灯のいろに似ていでにけり 古郷

五十崎古郷が俳句を始めたのは、胸部疾患が再発し、郷土の松山市郊外余土村で療養生活に入ってからのことで、おおよそ昭和二年、三十二歳の頃とされている。
彼にあたえられた俳句活動もまた、不器男と同様、中途半端に終ったと言わざるを得ないが、短いながら、ある意味では、俳壇史の波を一身にかぶっている。


(つづきは本誌をご覧ください。)