東京ふうが56号(平成31年冬季・新年号)

曾良を尋ねて

乾佐知子

113 ─ 近畿地方周遊の旅に関する一考察─

 

 前稿で曾良が四月から六月にかけて驚嘆すべき脚力と智力をもって、京都、大阪、奈良と近畿地方をくまなく巡っている様子を書いた。それも神社と寺にこだわっていることも気になる。さらに行く 先々で「○○衆」という面々と会合を持っているらしいこともわかった。では一体何のためにこのような行動をとっているのか。(村松友次著『謎の旅人 曾良』)   徳川氏が幕府を開き天下の政権をとったとはいえ、まだまだその基盤は脆弱なものであった。常に潜在的な脅威は京都にある朝廷であり、それに結びつく近畿地方の豪族や寺社であった。

天下統一に明け暮れた戦国時代の武田氏や北条氏にしても常に京都の動向は警戒していた。特に徳川氏の場合は、一代にして野望を遂げた豊臣政権当時の残党が、関西にはまだ多く潜んでいる可能性があり、常にその動向には神経を尖らせていたのである。

朝廷をかついで叛乱とか、一揆を起こそうとすれば、先ずその拠点となるのは神社か寺である。寺や神社に少しでも不穏な動きがあれば、その土地を治める藩は忽ち公儀からお取り潰しの沙汰が下される、という次第だ。江戸時代は曾良のように幕府の密命を持った集団が、近畿及び全国の多くの地域に存在していたと思われる。

曾良の近畿周遊の旅は前半が六月二日で終っており、後半は六月二十六日から始まっている。出発は前半と同じ京都だが後半は逆回りで京都から大阪、吉野へ戻って奈良そして伊賀上野と続き最後は伊勢長島に七月十七日に到着している。 この日から長島滞在中の二十五日までの日記は見られるが、ここで旅日記は終っている。

このように書いてくると、曾良は俳句のことを全く忘れ、公儀の仕事に没頭しているように思われるが、決してそんなことはなかった。曾良は元禄四年三月に凡兆の家を訪ねているが、その目的は芭蕉の消息を知る為だけではなかったようだ。芭蕉は去来のいる落柿舎だけでなく、前年から凡兆の家に世話になっていた。

当時芭蕉が『猿蓑』の編集に忙しいという噂は門人達にも伝わっており、自分の 句が選ばれるか、何句載るかで一喜一憂していた門人達が度々訪れていたらしい。
曾良もどうやらその一人だったとみえ、凡兆の家に着き芭蕉の留守を知らされた後に、「翁ノ書ヲ調ベル」と日記に書かれている。やはり自分の句が選ばれているか、を知りたかったのであろうか。
五月二日、曾良は落柿舎にいた芭蕉に会って一ヶ月に亘った一人旅の報告をしている。

熊野路や分つつ入れば夏の海  曾良

この句は『猿蓑』に入り、曾良は喜んだことであろう。『猿蓑』には、一〇八人の門人の句が載ったが、一番多いのは凡兆の四十一句、芭蕉が四十九句、去来と其角が二十五句、尚白十四句、史邦十三句で曾良のも十二句載っている。ちなみに〈憂き我をさびしがらせよ秋の寺〉 の句も「秋の寺」を「閑古鳥」と変えて載せている。(岡田喜秋著「芭蕉の旅路」)


(つづきは本誌をご覧ください。)