東京ふうが57号(令和元年春季号)

韓国俳句話あれこれ 2

本郷民男

韓半島への日本人の進出

明治になってからの韓国の俳句は、日本人の進出に伴ったものです。日本では朝鮮半島と呼びますが、韓国では韓半島と言います。江戸時代の両国の関係は稀に見る善隣友好の時代でした。1592年から97年まで、韓半島は豊臣秀吉の仕掛けた戦争で、大混乱に陥りました。豊臣政権を倒した徳川家康は恩人でした。明治の新政府は恩人の政権を倒したので、朝鮮国から相手にされませんでした。
鎖国していた日本はペリー艦隊の砲艦外交で開国し、不平等条約を結ばされました。日本はこれに学び、雲揚号を派遣して漢城(今のソウル)のすぐ西の江華島などの砲台や守備隊を攻撃しました。1875年の江華島事件です。ペリー艦隊は3800tの戦艦が旗艦でしたが、雲揚号は245tの木造船です。それでも英国製の新鋭軍艦なので、お台場にあたる首都の防衛線が撃破されました。こうして、1876年には不平等条約を結んで、釜山、仁川、元山の三港が開港し、日本人居留地という楔が打ち込まれました。

三つ巴の明治俳壇

明治になると正岡子規によって新しく俳句に変わったと単純に考えないで下さい。春湖、等栽、為山の三大家が健在で、江戸時代そのままの俳諧が始まりです。1873年に政府が俳諧教導職の試験を行い、若手の三森幹雄が合格して、宗匠の頂点に立つ下克上が起きました。これに其角の末流を自称した其角堂永機が、東京の宗匠の双璧でした。京都では花の本十世の八木芹舎と十一世の上田聴秋が君臨し、他にも浜松の松島十湖など、各地に有力者がいました。
それらの旧派に対して新しい俳句を目指した人々を総称して「新派」と呼びます。新派の最初の人は萩原乙彦ですが、短命のプレイボーイで終わりました。次が紫吟社・秋声会のグループです。1890年に尾崎紅葉や巖谷小波が紫吟社を結成し、1895年には角田竹令が秋声会を結成して、紫吟社もこれに吸収されました。秋声会は弁護士、小説家、高官といった名士の集まりで、俳句を愉しみ、俳書を収集するといったサロンでした。
正岡子規の俳句革新は、1892年に新聞『日本』へ連載された『獺祭書屋俳話』と、1893年から94年にかけて連載された『芭蕉雑談』によってなされました。芭蕉が1694年に没したので、旧派による芭蕉二百回忌の行事が盛んでした。1887年には芭蕉の墓のある義仲寺で、其角堂永機が七日七夜の大法要を行いました。三森幹雄は深川に広大な芭蕉神社を建立して、1893年にはそこで神道式の二百年祭を行いました。これらの馬鹿々々しい行為が、子規に俳句革新をさせました。
けれども、旧派は地方の名望家から大衆に至る支持を集め、秋声会も文明開化の波に乗って大きな力を持ちました。子規やその弟子たちは、書生と判断されました。政治家宅の玄関脇の二畳間に寄宿して、将来を夢見る若者といった印象です。子規の流派が台頭するには、まだ時間が必要でした。


(つづきは本誌をご覧ください。)