東京ふうが58号(令和元年夏季号)

韓国俳句話あれこれ 3

本郷民男

▲木浦での俳諧資料の発見

韓国の西南部に木浦という港町があります。植民地時代には綿花や米を日本へ運ぶ町として繁栄しました。四国の松山を俳句首都と呼びますが、木浦も俳句首都でした。建国大学校の李炫瑛教授が、二〇〇九年末に木浦で興味深い俳諧資料群を入手しました(李炫瑛「新出俳諧資料に関する小考」『日語日文学研究』七六巻、二〇一一年)。資料二〇点短冊一〇〇点というのでかなりの量ですが、元の所有者などが不明です。しかし、木浦の実業家の奈良次郎旧蔵と推定されます。資料というのは掛け軸で、中には短冊を貼り付けたものもあるということです。

▲蕉門十哲の句画軸

花盛子て歩行るゝ夫婦哉  其角
卯の花や月の力を窓あかり 野坡
十団子も小粒になりぬ秋のかせ 許六
はつ霜や麦まく土のうら表 北枝
簾に入て美人になるゝ玄鳥かな 嵐雪
六玉川高野の外は清水哉 去来
早稲の香や田中を行は弓に弦 支考
雁かねもしつかに聞はからひすや 越人
菊枯や冬たく薪の置ところ 杉風
鶯や茶の木畑の朝月夜   丈草
壬申夏月 応需 甘海書 □□

人物群像の上に、このように書いてあります。蕉門十哲は人によって違いますが、『続俳家奇人談』(岩波文庫『俳家奇人談・続俳家奇人談』)に蕪村の挿絵があり、これを十哲とするのが一般です。それには、其角、嵐雪、東花坊、許六、去来、丈草、野坡、越人、北枝、杉風とあります。東花坊は支考の別号なので、完全に一致します。裏に極書のような添書があります。

芭蕉十哲の図
守村抱儀筆

抱儀は江戸の俳人なり。通称治郎兵衛。
浅草蔵前の米商なり。名は約、鷗嶼、また不知斎と称す。後、真実庵と改む。
蒼虬の門人。文久二年正月十六日没。歳五十八。

佐久間甘海、施無畏庵、金龍子、〇〇〇〇、無価道人、初め未足と号す。信州の人、明治十三年七月六日没。日光鉢石観音院に葬る。僧なり。


(つづきは本誌をご覧ください。)