東京ふうが60号(令和2年冬季・新年号)

新型コロナウイルスに思うこと

蟇目良雨

2019年末に中国武漢を発生源として新型コロナウイルス感染症の拡散が世界中に広がっている。日本で認識され始めたのは2020年2月初め、クルーズ船ダイアモンドプリンセス号内で感染者が見つかり対応に追われてからである。しかし、この時、時すでに遅しで、中国からの観光客が旅行で日本各地に入り、点々とコロナウイルスをふりまいていたらしい。北海道が東京より圧倒的に多いのは、雪祭など冬の景色を楽しもうと中国人旅行者のインバウンドの増加によるものだ。パンデミックになるかどうかの瀬戸際にある。

しかし救いになるのは、100年前のスペイン風邪の時とは違い、医学的知識が国民に浸透して予防策を国民一人一人が理解していることだろう。人から人への濃厚接触による感染が原因であることを知れば、手洗い・洗顔・マスク着用の基本的なことを守れば爆発的には拡散しないと思えることである。早く治療薬の完成が待たれる。

さて、世間を眺めれば、政府の要請により大規模な集会が次々と中止させられて外に出るのは不見識だという自粛ムードが漂っている。俳句の世界でも句会の中止を早々と決めたところもあると聞く。自分の身は自分で守らなければならないのは当然で、安全なところに身をおくことは重要である。一方、俳句は風雅を求めると同時に風狂の精神が無ければ奥深く進むことが出来ないと思っている私は、句会の中止は不必要と思う立場であったので、100年前に流行したスペイン風邪のときに俳人たちはどのように行動したのか興味を持った。

春耕に関して言えば師の皆川盤水先生が生まれたころに当たる。先生は1918年(大正7年)10月25日生まれのはず。丁度スペイン風邪が流行していたさ中に生まれたのだ。スペイン風邪とは後年名付けた名称であり当時は、流行感冒と呼ばれていた。知り合いがばたばた倒れてゆく時に出産された先生の御母堂の心配は只ならないものがあったはずだ。先生の誕生日については、先生の口から「私の誕生日は大正八年になっている」とお聞きしたこともある。当時、常磐炭鉱の技師だった御父上が磐城におられたので、磐城の役場も流行感冒の影響で受付業務に支障をきたし出生届が遅れて大正八年の受付にされてしまった可能性がある。

当時の凄まじさの一例を私の父の手記から見てみよう。

一九一八年(大正七年)スペインからはじまって世界中に流行した悪性感冒。伝染力が強く急性肺炎を起し、その死亡数は第一次世界大戦のそれより多かったと言われる。東北地方にもその猛威は及んだ。最愛の母を奪われた宮古町での出来事。
小学一年の宿題に、算用数字のI、2、3を石板にローヒツで書くのがあった。・・・中略・・・
この年の秋、スペイン風邪の大流行で、三十代の男女がつぎつぎ倒れていった。学枚も一週間臨時休校で、そのとき私も寝込み、学校がはじまったら、今度は母が寝込んでしまった。高い熱、アスピリンしか投薬されない。医者は毎日、来てくれたが、熱は下がらず、父もつき切り、私は氷買いに熊谷分家へ走った。母は、うわ言を連発する、「いますぐ行くから待ってて」とか、「きれいなお庭ネ」とか、ふだん仲よかった人の名がでる。その人も昨夜なくなったそうだ。感染をおそれて、葬いの行列もなく、深夜、提灯と舁ぎ手数人が四斗樽みたいなハヤオケ(寝棺も、四角い立棺もないころだ)に荒繩でくくり、ミシミシ、ミシミシ気味わるい音を残して土葬場に運んだという。母も一週間後の夕刻、私が氷を買ってきて、台所で千枚通しで砕いているとき、息をひきとった。父が「ケン、お母さんが・・・」と絶句し、「おじいさんに早く知らせろ」といった。私は駆け足で祖父のもとへ。長身の祖父が、母の枕元で、鼻をつまらせ「親不孝もの」と一言もらした。十月二十八日夕刻。肉親、親類、知人、教え子の出入りや通夜のことは、記憶に無いが、葬式の日は、晴れて暖かい日だった。長い長い行列が続いた。私が、位牌をもち叔父、叔母につき添われて進む。ときどき行列が止まり、私はうしろを振りかえって見た。長い坂道をのぼり、山すそのお寺につく。末寺だった。本寺は山を越す遠いところなので、末寺でやるが、本寺から坊さんが三人、立派な衣で本堂の椅子に腰かけ、一人が白い長い毛のついたのを持っている。ドン、ガチャ、チーンという太鼓や鐘、鈴の音の繰り返えしにドキドキしながら正座していた。その後の行事、法事のことは頭に残っていない。父は新しく出店したこの町の支店長になった。その後、後添いを貰った。
「スペイン風邪」蟇目憲一『南部風来記者一代記』から


(つづきは本誌をご覧ください。)