東京ふうが69号(令和4年春季号)

コラム はいかい漫遊漫歩 『春耕』より

松谷富彦

156 まな板に小判一枚初鰹
宝井其角

 初鰹と言えば、まず浮かぶのが山口素堂の〈 目には青葉山ほととぎす初鰹 〉の句。俳句作法の禁忌である「季重ね」「三段切れ」を堂々と使った名句だ。素堂の句を下敷きにした〈 目と耳はただだが口は銭がいり 〉の江戸川柳があるように江戸っ子が「嫁を質に置いても」と飛びついた高値の初鰹の話。
高速道路もトラック便もなく、冷凍技術もない時代、生きのいい初鰹を口にしようと思えば、女房を質入れしたくらいでは、追いつかない〝べらぼー〟法外な値段が付く道理。『江戸食べもの誌』(興津要著 河出文庫)から引く。
〈 文化9年(1812)3月(筆者註:陰暦)25日に魚河岸に入荷した初鰹の数は17本で、6本は将軍家でお買いあげ、3本は料亭八百善が二両一分で買い、8本を魚屋が仕入れ、そのうち1本を中村歌右衛門(筆者註:三世 芸熱心で演出や意匠に新しい工夫、型を多数残した名優)が三両で買って、大部屋俳優にふるまった…〉
見出し句で其角はまな板の初鰹が小判一両と詠んでいるが、現在の貨幣価値に換算するといくらになるか。『江戸の家計簿』(磯田道史監修 宝島社新書)によると、一両=米一石を基準にすれば現代の米の値段で考えると5、6万円だが、いまの米価は江戸時代の五分の一ほどの安さ。言い換えると、当時は一両が20~30円の価値を持っていたことになる。
芭蕉は2歳年長の門人、素堂とは互いに敬愛する無二の親友同士だったが、やはり当時、江戸に最も近い鰹の漁場だった鎌倉沖から届く初鰹を詠んだ句を遺している。〈 鎌倉を生きて出でけむ初鰹 〉江戸っ子の口に入るまで、いかに時間との勝負だったかが伺える句だ。
実は江戸近海に鰹が南から上って来る春、長旅で脂身は落ちており〝一番旨い〟時季ではなかったが、蜀山人の『仮名世説』に〈 江戸にて初鰹をめずる事、北条五代記に見ゆ。…諸侍、戦場の門出の酒肴には、鰹を専ら用ひ侍りぬ…〉とあり、北条氏の先例にならった徳川氏が、鰹を武運のための縁起のいい魚として扱ったことから、その気分が江戸っ子に浸透し、先を争って初鰹の刺身を賞味するようになったと、興津さんは『江戸食べもの誌』に書く。
池波正太郎著『剣客商売 庖丁ごよみ』(新潮文庫)で小説に登場する江戸料理の再現を担当した「てんぷら近藤」店主、近藤文夫さんの「初鰹」のコメントを引く。〈 初鰹の旬は、4月中旬あたりから5月。本当の鰹好きは脂がのってくる七月ごろのを好みます。脂が多いため身がやわらかく美味しい。戻り鰹というのは秋なのですがこれも刺身にするとなかなかのものです。〉と。ちなみに東北方面からたっぷりと栄養をつけ、南下してくるのが戻り鰹。
初鰹、初酒、走り蕎麦、早松茸、新茶、初茄子と初物好きの江戸っ子に対して、上方の浪速っ子たちは〈 松魚(かつお)は…たまたま出ることありても、10月より末にて、初がつお賞玩することは絶てなく…〉と『江戸の料理史』(中公新書)の著者、原田信男さんは、江戸から大坂町奉行として赴任した旗本、久須美某の随筆『浪華の風』を引き、〈上方では初鰹はおろか、鰹を好むことは少なく、天明期の初鰹の情熱は、江戸特有の一時的な異常人気〉だったと断じている。

(つづきは本誌をご覧ください。)