東京ふうが70号(令和4年夏季号)

韓国俳句話あれこれ 15

本郷民男

▲ 朝鮮俳句選集

 前に小欄で、1926年の『朝鮮俳句一万集』を取り上げました。その次の大きな句集が1930年の『朝鮮俳句選集』です。編集・発行が北川左人(1890~1961)で、やはり一万句を季題ごとに並べました。凡例に「本句集は、朝鮮人の創作せる多数の佳句を加へてある點において古今比類のなきものとなつてゐます。」とあります。
〈朴魯植が在世中擔當した「神仙爐俳壇」は朝鮮人のみを養成する特設欄で、参加する鮮人俳家五十名に餘り、金玉峰、李永鶴、張鳳煥、李淳哲等ホトトギス雑詠に現れるに至った。〉(村上杏史「朴魯植とその遺族のこと」『ホトトギス』昭和32年2月号)
そこで、今回は『朝鮮俳句選集』から、昭和の初めの韓半島俳人を抜き出すことにしました。

▲ 先ずは最初の方から

① 逝く春や一と枝枯れし大欅   趙炳奎チョビョンキュ
② 柳笛そこはかとなき朧かな   金萬夏キムマナ
③ 支那町につきたる舟や花曇   鄭箕川チョンキチョン
④ 春雷や廟の書壁の走りひび罅   朴魯植パクロシク
玻璃はり窓や春の海山かゞやかに   金玉峰キムオクポン
⑥ 谷深く耕人見ゆるところかな   金大源キムデウォン

 

句集に登場の順番に、番号を付けました。
③の鄭箕川は1895年に生まれ、大阪医科大学を卒業した医師です。平安北道楚山の道立病院医官をしていました。本名は鄭求忠チョンクチュンで、名門の出と思われます。朴魯植(1897~1933)も名家の出で朝鮮の子規と呼ばれ、木浦モッポに住んで後進を育成しました。金玉峰(1909~1932)は朴魯植夫人の弟で、木浦商業学校時代に『ホトトギス』入選という俊才です。京城で時調シジョという韓国の伝統詩の詩人として嘱望されながら病死しました。金大源は平壌北東の成川ソンチョンに住み、韓半島の俳人として活躍しました。


(つづきは本誌をご覧ください。)