東京ふうが 21号(平成22年 春季号)

銃後から戦後へ 13

東京大空襲体験記「銃後から戦後へ」その13

三途の川からUターン
鈴木大林子

話を戻して、皆さんは保線作業というものを実際に御覧になったことがありますか。「昔は電車の窓からよく見掛けたが今はとんと見掛けなくなった。やっていないんじゃないか」とおっしゃる方が多いのではないでしょうか。勿論、線路の保守を怠れば大事故にもつながりますから作業は間断なく行われています。但し、殆んどが終電と始発の間、つまり線路が空いている深夜の時間帯を利用して検測車と作業車と呼ばれる二種類の車輌によって行はれているので一般の人の眼に触れることはありません。検測車というのは特殊な電波によってレールの傷や歪みを発見し、それをデータ化して作業車に指示を与えるもの。昔は線路工主長という名のリーダー兼大ベテランが検査ハンマーという細長いステッキの先に小型のハンマーが付いたものでレールや枕木を叩いて安全を確めながら巡回していたのですが、これには長い長い経験に基づく勘が必要なので技術の継承が困難なのとやはりいくら名人達人でも人間には勘違いが付きものであり、しかもたった一人の勘違いが多くの人命に関るとあれば科学の粋を集めたIT機器に場所を譲らざるを得ないのでしょう。作業車は検測車が作成したデータに従って作業箇所に赴き必要な機器を駆使して作業を行いますが、主力は車輌の下部に固定されている鋼鉄の巨大なヘラのようなものが一斉に上下運動して、線路を支える道床の搗き固めを行う作業、これは昔御覧になったあの数人がひと固りになって鶴嘴(ツルハシ)のようなものを振り上げては振り下していたあの牧歌的な光景を機械が再現しているものなのです。どちらの車輌も中に入ると壁には見たこともないような計器類が所狭しと並び、IT画面を見ながらボタンを操作しているジャンパー姿の人々はオペレーターと呼ばれるエンジニア。車内は冷暖房完備のうえに湿度調節までしていますから快適そのものです。

話がだいぶ横道に外れましたが、これからお話しするのは、そんな最先端技術の現場ではなく、今からざっと半世紀前に経験したいわば昔話ですからそのつもりで聞いて下さい。
舞台は東海道本線と京浜東北線の並走する大森駅から南へ約二百メートルの個所、当時は横須賀線も東海道本線と同じ線路を走っていました。時刻は三時頃と憶えていますが、そこから南へ二百メートルばかりの所で数人の仲間と作業していた私は、フォアマンである副長に命じられて作業に必要となった工具を取りに行くべく一人で汽車線(東海道本線と横須賀線の共用する線路をこう呼んでいました。因みに京浜東北線の方は電車線)を詰所に向って歩いていました。

(つづきは本誌をご覧ください。)