東京ふうが37号(平成26年 春季号)

曾良を尋ねて 20

56 桃印の謎、田中善信説について

乾 佐知子

前稿で芭蕉の家族について若干述べさせて戴いたが、厳密に家族といっても桃印は甥であり、寿貞も正式な妻ではない。3人の子供も全部芭蕉の子か明確な資料があるわけではない。その上桃印と寿貞が夫婦であったらしいという説もあり、今もこのテーマは俳壇ではさまざまな説が出されている。
そんな折、芭蕉が深川に移らざるを得なかった最大の原因を近年になって新たな視点から指摘された方があり、あまりに意外な説に研究者の間にも賛否両論がおこっている。
以前にも紹介したことのある白百合女子大学の田中善信氏は「桃印と寿貞が駆け落ちをしたからだ」と主張している。氏の著書『芭蕉=二つの顔』には約60頁に及んで2人の説明が克明に述べられている。
資料的に検証してあるので多分間違いなかろうと嵐山光三郎氏は彼の著書『悪党芭蕉』の中で述べているが、逆に光田和伸氏のように・ありえない・とばっさり否定している方もいる。
では何故このような突飛とも思える説が出てきたか、というと桃印が上野から江戸に出て来て以来この年つまり延宝8年は丁度5年目に当っていた。当然藤堂藩の法によって帰国せねばならなかった。所が本人の行方がわからず寿貞までいない。もし帰らなければ国元にいる兄半左衛門にまで迷惑が及ぶ。窮地に陥った芭蕉は思い切った策に出た。それは桃印が死亡したことにしてこの苦境を脱したのだろう、と田中氏は推論している。つまり藤堂藩に桃印の偽りの死亡届を出したというのである。現に松尾家の菩提寺である愛染院の過去帳には「冬室宗幻・延宝8年10月22日(8月10日)松尾半左衛門甥」と桃印の戒名まであるという。 実際、桃印は35歳で死亡するまで15年間に一度も上野に帰っていない。芭蕉は近所の口から藤堂藩に知られることを恐れて日本橋を離れて深川に移ったのだ、というのが田中説である。
嵐山光三郎氏はこの説に・目からうろこが落ちたようである・と絶賛しているが、私には少々の疑問が残った。

(つづきは本誌をご覧ください。)