季刊俳誌東京ふうが 平成28年冬季新年号通巻44号

東京ふうが44号(平成28年冬季新年号)

寄り道 高野素十論

その十五

蟇目良雨

秋櫻子と素十の決裂のきっかけになったと言われる論文の中核となる文章を今回読んでみることになった。
俳誌「まはぎ」に掲載されその後1年を経て「ホトトギス」に転載された「句修業漫談 みづほ・今夜」の文章である。

「句修業漫談(三)―秋櫻子と素十―」はまさに、秋櫻子が訴える「自然の真と文芸上の真」論争のきっかけになった俳壇史上重要な出来事の引きがねを引いた論文なのので注意して、ゆっくり鑑賞してゆきたい。
ここで少し頭を冷やすつもりでこれまでのことを整理しておきたい。
仲の良かった秋櫻子と素十は吟行会や句会を同じくしてめきめきと俳句が上達し、昭和3年の暮から山口青邨が命名した「四S」として俳壇の最も期待する四人として位置付けられた。
「ホトトギス」が全盛期を迎えるにふさわしいスターの誕生であった。
二人とも繁々とホトトギス発行所に出入りして虚子に可愛がられたのは、東京帝大医学部卒業生であり将来を期待できると虚子が人物の値踏みをしたからである。
秋櫻子は神田神保町で祖父の代から産婦人科医を営む家に生まれ、父の代からは産婆學校も経営する裕福な環境に育った。
一方、素十は、自分では百姓の息子と言っているが庇護者の叔父は越後長岡でガス会社を経営し代議士になっていた資産家で、ゆくゆくは娘の婿にしようと考えていたので経済的には何不自由のない暮らしをしていたのである。このいきさつは関東大震災直後に当時素十が住んでいた音羽の叔父の家に俳句仲間を集めて酒をたっぷり飲みながら句会を開いて居たことを既に述べておいた。
秋櫻子は窪田空穂に学んでいた短歌の優美な世界を俳句に持ち込もうと努力し「筑波山縁起」のような連作俳句を試み新風を起こそうと努力していたのであるが、この試みは虚子の受け入れるところではなかった。虚子は「客観写生」こそが俳句の進むべき道であると信じて疑わないため、秋櫻子の自由な振舞いを黙認していたのであるが秋櫻子第一句集『葛飾』の出版の後に、「あれだけのものでしたか」と秋櫻子の試みの限界を匂わせて秋櫻子を落胆させた。
虚子が恐れたのは秋櫻子に従って写生俳句を疎かにするホトトギス会員が増えることであった。此の事だけは何としても食い止めたいと思っていた矢先に新潟の地でホトトギスの先兵として矛をふるっていた医学博士中田みづほと濱口今夜の句修業漫談がみづほの主宰する「まはぎ」に連載された。
虚子はホトトギスの新人に向けて教科書替わりに恰度お誂え向きであると確信し「まはぎ」から「ホトトギス」への転載を決定した。
みづほと今夜とはどんな人物なのだろうかおさらいしてみる。
みづほは東京帝大医学部在学中から俳句に染まり、始めは長谷川零余子を指導者に立てて帝大俳句会を運営していた。そのうちに虚子も指導に参加するようになると零余子は居場所がだんだんなくなり、遂にホトトギスを離脱して「枯野」を立てた。このため帝大俳句会は自然消滅の形になったが、このころようやく俳句の力をつけてきた秋櫻子がみづほに対して虚子を呼んで帝大俳句会を再興しようとして実現したのが新宿船河原町のホトトギス発行所で行われるようになった再興帝大俳句会で東大俳句会の始まりである。
学業優秀なみづほは大正11年2月に新潟医科大学外科助教授として新潟に転居した。後にドイツ外遊を終わってホトトギス俳句を広めたいと思って創刊したのが「まはぎ」である。時は昭和4年9月になっていた。
秋櫻子と素十は東京で句作りに励み、みづほは新潟で今夜と共に句作りに励んで競い合った時期が昭和3年という年である。
昭和4年になると素十と秋櫻子は四Sと呼ばれホトトギスでは誰知らぬ存在になっていた。また、みづほも今夜も新しく興した「まはぎ」に拠って大いに俳論を語り合ったのである。その俳論はこれまで見てきたように虚子の客観写生を大切にする論調であり、虚子の写生を信奉してきた素十の俳句への態度がまさにお手本に見えたのである。
しかし、素十を立てるばかりでなく秋櫻子の良さも認めて論を進めてきたのであるから冷静に読めば双方がなるほどと思うものばかりであったのだが、秋櫻子の側(後に秋櫻子に従ってホトトギスを離脱した人たち)は虚子がわざと秋櫻子に当てつけのように、地方の俳誌である「まはぎ」の論文を中央も中央、その当時権勢を誇っていた「ホトトギス」に転載したためにそれまで我慢してきた鬱憤がついに爆発して、「自然の真と文芸上の真」なる論文を秋櫻子が執筆し「馬醉木」誌上に掲載し論戦が始まり遂には秋櫻子たちは「ホトトギス」を離脱し、それ以後、終生、素十と秋櫻子は相交えなかったというのがこれまでの筋書きである。
秋櫻子はその著『高浜虚子』に思い語りを書き、虚子との軋轢を深刻そうに書き記しているが、江戸っ子の鏡にならねばならない秋櫻子が、正式な別れの挨拶をしないで何時の間にか「ホトトギス」を離脱していたことを、私は以前指摘しておいた。これは秋櫻子らしくないやり方である。
昭和4年という年は、秋櫻子にとって大変な年であった。それは関東大震災で焼け残った医院と産婆學校が道路拡張工事のために移転しなければならず大規模な新築工事を完成させた年でもある。
一方の素十は持ち前の楽天的な生き方を続け、叔母からは研究に精を出すように言われ続けられても好きな俳句は止められず、ホトトギス誌上では欠詠が続いたのであるが、ホトトギス発行所に入り浸っているうちに虚子の娘の星野立子と懇ろになり翌年昭和5年2月に星野早子が生まれるようになっていたと村松紅花氏から伺っている。
「まはぎ」にみづほと今夜の句修業漫談が掲載されたのはまさにこんな時期であった。
虚子の家族思いは大変深いものがあることは周知のこと。このとき虚子は56歳になっていた。立子は27歳で夫ではない人の子を産みこれから育てていか無ければならない立場になってしまった。何とか収入の道が無いかと考えた挙句に「玉藻」を立子に経営させてみようと実現させたのは、まさに早子が生まれた月である。
素十は37歳でありまだ医局にいて定職がなかった。素十は「玉藻」の為に大いに盡し続けた。昭和7年に千葉富士子と結婚して新潟医科大学の助教授として就職し、すぐドイツへ留学したが、留学先からも「玉藻」に句や文章をまめに寄越して「玉藻」の経営に貢献した。


(つづきは本誌をご覧ください。)