俳句とエッセイ「東京ふうが」平成28年秋季号

東京ふうが47号(平成28年秋季号)

寄り道 高野素十論

その18

蟇目良雨

また長文になるが秋櫻子が「ホトトギス」を離脱するための爆弾原稿が以下の『「自然の真」と「文芸上の真」』なので、その原稿を読んでみよう。

爆弾原稿と表現したのは、いかにも舌鋒鋭く喧嘩を売り掛けておいて、この原稿が発表された昭和6年10月を以て秋櫻子は大勢の弟子を引き連れて「ホトトギス」を去っていったのである。今なら天下の一大事として喧伝されたろう。

前にも述べたが、秋櫻子は、虚子や親友の素十にさえ正式に「ホトトギス」を辞めるとは申し入れてない。ある日突然数百人の弟子を引き連れて「馬醉木」に籠ったのである。

これを天下の一大事と言わないで何と表現すればいいのだろう。それに対して虚子も「ホトトギス」誌上に「水原秋櫻子を除名にする」と書くことすらしなかった。

書いたものはただ、2か月後の「ホトトギス」昭和6年12月号に書いた「厭な顔」という物語風文章であった。12月号に載ったということは10月には既に書いて用意しておいた文章といえよう。

その時期はすなわち、秋櫻子の書いた「自然の真」と「文芸上の真」の文章を読み、秋櫻子が大勢の弟子を引き連れて「ホトトギス」を去った月である。「秋櫻子を除名にする」と一行書けば済むところを何故「厭な顔」などという文章を書いたのだろうか。

「厭な顔」のあらすじは織田信長と、信長に歯向かった元子飼の浪人栗田左近の話である。生け捕った左近の顔を見た信長が、厭な顔を見せた左近を「斬ってしまへ」と命令する場面で終わる短編である。

この文章を読んだ大方の俳人は、信長が虚子で左近が秋櫻子であると考えたに違いない。事実、秋櫻子も直ぐ反応し、翌年1月号の「馬醉木」付録に、手回しよく「織田信長公へ」という短文を掲載した。その内容を要約すると

事情を知らない地方の武将たちは信長公の作り話に騙され、特に浜口越州、高野常州のへつらい武士は名作であると感嘆しているだろうが、史実は違うのでもう少し写生に努めなさい。ともあれ弓矢を相交えることが出来たのは幸い。    生きている左近

というからかう内容の文章であった。浜口越州とは新潟の浜口今夜、高野常州は取手出身の高野素十をからかったものである。

またこの付録すなわち昭和7年1月号「馬醉木」付録には別のからかい記事が満載していた。その内容は村松友次(紅花)先生は「さながら赤新聞」と評して驚いたくらいだ。それは当時よく出た赤新聞(個人の私行をあばいたり、セックス記事を売り物にした)を真似た編集で低俗を装いつつ虚子、素十、星野立子、千葉富士子(後の素十夫人)を攻撃している。またその低俗趣味はこれが当代一流の俳人が書いたものかた思うと情けなくなると評している。

実は「自然の真」と「文芸上の真」論争はこれがピークで後は収まっていった。それは昭和7年の10月に素十と千葉富士子が結婚したこと。そしてすぐに新潟医科大学へ就職し新潟への移住を素十が行ったことによる。

さながら赤新聞の内容は後日改めて見る事にして話を先に進めよう。

俳句の歴史は論争の歴史でもあるが、村松友次先生によると、その最大のものは貞門と談林の論争である。また蕉門内部では去来と其角の論争があったという。

本来ならばそれに次ぐ俳句論争になるべき筈の「自然の真」と「文芸上の真」論争であったが、内実は実りの少ない論争であり何のためにあったのかとさえ今では思われる。

それは繰り返して言うが、虚子の子の星野立子と高野素十の間に子が出来たことを世間から隠ぺいするための目くらましの論争であるというのが私の言いたいところである。

秋櫻子の論とはどんなものであったのか、また、内容は相応しいものであったのか、空論にすぎなかったのか、などを皆様に確認して頂きたいと思い以下にその論文を掲載したので是非読んでいただきたい。


自然の真」と「文芸上の真」  水原秋櫻子

目次
第一章  緒 論
第二章 「自然の真」と「文芸上の真」
第一節   自然の真
第二節   文芸上の真
第三節   俳句に於ける二つの真の関係
第三章  みづほ説の検討
第一節   みづほ君の所謂真
第二節   素十君の歩める道
第三節   みづほ君の誤解の原因とその視角
第四章  結 論

第一章 緒 論

文芸の上に於いて、「眞實」ということは繰り返し巻き返し唱えられてきた言葉である。そうしてこれは文芸の上に常に重大なる意義を持っているのである。然しながら、この「眞實」という言葉に含まれた意味は、時代の推移と共に、また変遷せざるを得なかった。例えば十九世紀の終から廿世紀の初めにかけて勢力のあった自然主義においては、「眞實」という言葉はただ「自然の真」という意味に用いられていた。「自然科学が自然の真を追求する学問であると同じように、芸術も自然の真を明らかにするのを目的とする。」と、此の派の人々は唱えていたのである。

 


(つづきは本誌をご覧ください。)