俳句とエッセイ「東京ふうが」平成28年秋季号

東京ふうが47号(平成28年秋季号)

「旅と俳句」 台湾紀行Ⅱ

原住民族の高地と町を訪ねて(3)

石川英子

1・序
2・台北・孫逸仙史蹟記念館     3月20日(日)
3・阿美族と太魯閣族の町花蓮    3月21日(月)
4・太魯閣渓谷へ高地民族を訪ねる  3月22日(火)
5・台東県へ・花東公路山線     3月23日(水)
6・プユマ族の山地・知本森林遊楽地 3月24日(木)
7・台東市から台北市・新北市へ   3月25日(金)
8・孫中山紀念館見学・帰国     3月26日(土)


6 プユマ族の山地・知本森林遊楽地 3月24日(木)

7時起床。NHK朝ドラのあと食堂へ。西洋人や台湾人の団体客が多く、早々に引き上げ。8時半、ホテル発。族文化館まで歩く途中、台東矯正芸術館の前で、台東監獄から連行された囚人達が鎖に繋がれて、トラックの荷台から降ろされている現場に出合った。皆優しい瞳をしていたが、人生に躓いてやり直そうとしている若者達だった。不意に数十年前の罪もないのに日本の高等教育を受けたというだけで緑島の監獄に送られた人々の事が脳裏をよぎった。日本でも一度も出合った事がないのに、不思議な縁である。石材や木材の豊かな国なので、立派な芸術品や生活用品を作ることだろう。隣りはヤマト運輸のターミナル。次はタクシー会社の本部。台東市政資料館は日本統治時代の役人官舎を庭園ごと保存して、戦前の平屋建て木造の日本家屋が美しく甦って展示館になっていた。森林公園の少し手前に原住民族文化会館があった。建物の柱や壁にプユマの模様をモチーフにし、民具や彫刻の像などを展示してあるが、現在はホテルになっており、只今修復中のため入館出来ないとの事だった。

9時半、台東駅着。雨合羽を忘れ、折り畳み傘一本で来てしまったが、売店には売っていない。特急列車で知本駅へ。こちらにも雨合羽はなく、山域には雨雲が低く垂れ込めていた。
知本温泉はプユマ族の村で、日本統治時代から温泉郷として開発されていた。知本渓に架かる温泉橋を渡り、内温泉という集落でタクシーを下車。この付近は中央山脈の裾曳く知本渓谷に沿ったプユマ郷といわれる山の中腹にある。土産物屋とホテルが散在し、無色透明の炭酸泉で皮膚の漂白と老化防止に効果があるため、美人の湯と言われている。

知本森林遊楽区

渓流に架かる長い丹(に)の橋を渡ると赤い三角屋根の入場券売場がある。遊歩道コースは、植物園と遊具の花園を通り、滝まで歩く一時間くらいの老人・子供向コース。榕蔭歩道というガジュマルの多い道を登ろうとすると、息子が好漢の坂コースを選んで、木の階段の続く急坂を登り始めた。折から雨が強くなり、ストックを片手に手摺りにつかまり、傘を差すこともならず、標高500mの直登の滑りやすい階段の道を登る事になった。30歳くらいの台湾女性と一緒に登っていたが、70歳の母上を下の待合室に待たせていると言って、途中で引き返して行った。所々に屋根付きの休憩所があり5分くらいずつ休憩したが、生い繁った熱帯雨林の至る所にガジュマルの巨木が無数に気根を垂れ、台湾猿の群が枝移りしながら鳴き交わしている。頂上の観海亭までの最短コースだと、息子は傘を片手に軽々と登ってゆく。夏用の薄いブラウスが肌にくっ付き、頭から足の先まで濡れ鼠ならぬ〝濡れ豚〟の形相で引き返す事もならず。ようやく見えてきた赤い柱を頼りに登ってゆくと、頂上の直前で土砂崩れのため通行止め。板書と共に綱が張られていた。行きは地獄、帰りは極楽。鶯の谷渡り、原色の大型禽の鋭声、鳥の囀りを楽しみながらの緩やかな遊歩道を、時折は遥かに太平洋を望みながらの下山となった。猿の家族は数知れず、山を荒らす〝猪や鹿に遭ったら一報を〟との看板が目立つ。木のモニュメントを三個組合せ、プユマの民が〝森〟という文字を作っている公園があって、楽しみながら下り切った所に〝毒蛇と毒蜂に注意〟の立て看板が絵入りで立っていた。


(つづきは本誌をご覧ください。)