東京ふうが58号(令和元年夏季号)

寄り道高野素十論 28

蟇目良雨

 ─ 志摩芳次郎という俳人 ─
(「素十 – 秋櫻子」問題を論じる中で)

前回は、志摩芳次郎の著作の力を借りて少し面白おかしく論を進めた嫌いがあるので志摩芳次郎の背景を探ってみよう。

たまたま『志摩芳次郎全句集』を入手できたので、読んでみるとその経歴には驚かされる。「風狂の人」と言って差し支えない人だ。生活のためもあるだろうが、根っからの俳句好きの人である。俳書の執筆編集を次から次へと行い、俳句の選を生涯続けた俳人のエネルギーはどこから来るのだろうか。

酒を飲まないから酒の上での失敗談は無し。著名人に可愛がられたのはその性格に起因するのだろう。宇都宮徳馬に可愛がられたことが、その後の人脈を広げたに違いない。僅か2歳年長の宇都宮に可愛がられたというのも面白い。よほど馬が合ったのだろう。その宇都宮徳馬の経歴も破天荒だ。蛇足ながら記すと、

政治家。東京・渋谷に生まれる。父は陸軍大将宇都宮太郎。陸軍幼年学校卒業後、旧制水戸高等学校、京都帝国大学経済学部に転ず。京大では河上肇の影響を受け社会科学研究会のリーダーとなるが不敬罪で検束され退学。一九三〇年(昭和5)治安維持法違反で投獄され、翌一九三一年保釈となる。満州事変後の株高騰で得た利益をもとに一九三八年ミノファーゲン製薬会社を設立。第二次世界大戦後、読売新聞論説委員を経て、一九五二年(昭和27)自由党から衆議院議員に当選、以来衆議院十選。日中、日ソ、日朝の国交回復に尽力、リベラリストとして党内異色の存在であった。一九七六年金大中(キムデジュン)、ロッキード両事件の処理に憤激し議員を辞職、自由民主党からも離党した。一九八〇年参議院当選。一九九二年(平成4)政界を引退。内外の軍拡傾向に抗議し国際軍縮議員連盟を組織する。宇都宮軍縮研究室から月刊誌『軍縮』を発行し、憲法擁護の論陣を張った。(一九〇六-二〇〇〇)[小田部雄次](日本大百科全書による)

軍人の子でありながら社会主義に染まり、株で大金を手にして製薬会社を起こし、新聞社で論説委員を務め政治家になり十選を果たすというのは並大抵ではない。興した製薬会社は今でも世の人のために役立っているので、社会に尽くすという力の入れようが分かるものだ。日本にはこうした怪物めいた人物がこれまでも多くいたのだ。宇都宮徳馬の名は知っていたがこれほどの人とは思ってもいなかった。人物像を深く知れるのも「寄り道」をしながら「高野素十」を調べている収穫である。

さて。志摩芳次郎に移ろう。その経歴は掴みようがないが、人に愛されたには間違いがないようだ。それは、人に可愛がられ次から次へと仕事を貰う事実から想像できる。

年表から志摩芳次郎の人生を追ってゆく。

1908年(明治41年)1月13日桐生市生まれ。
3歳から7歳まで鹿児島の父の郷里薩摩郡下甑村手打で五年間育つ。前回鹿児島生まれとしたのは誤り。
旧制東京巣鴨高商中退。家業を手伝いながら少年向け月間雑誌などに投稿。
1934年(昭和9年)27歳で「医事公論」記者となる。同社長山本春潮の勧めで社内句会に出句。石橋辰之助を知り「馬醉木」に投句。水原秋桜子、石田波郷に師事。中西悟堂の「日本野鳥の会」に入会。
1938年(昭和13年)31歳 9月石田波郷「鶴」創刊に参加。同人、代々木初台の自宅を編集室にして編集手伝い。
1939年(昭和14年)「科学ペン」編集長になる。式場隆三郎博士と共同で仕事。
1941年(昭和16年)34歳 ミノファーゲン製薬会社(社長宇都宮徳馬)の宣伝部長として入社。結婚。
1943年(昭和18年)36歳 徴用され軍需工場に配属。ここで吉田鴻司、村田栄一郎と知る。
1945年(昭和20年)ミノファーゲン製薬に復帰。宇都宮徳馬夫妻との交流は終生続く。
1946年(昭和21年)39歳 石田波郷と共に総合俳誌『現代俳句』を創刊。発行者菅生定祥。以後しばらく日米医学社(宇都宮徳馬関連)に籍を置く。
菅生定祥(三協美術印刷など各種出版社経営)にも可愛がれる。
1947年(昭和22年)40歳 「現代俳句協会」発足に参加(石田波郷、山口誓子、加藤楸邨ら三十六名。)原始会員になる。飯田蛇笏、龍太、石原八束と知る。9月波郷発病のため、12月「日米医学社」退社し、『現代俳句』の編集に専従。
1949年(昭和24年)「風」十月号に作品二十句及びアンケート調査への回答。
1950年(昭和25年)『現代俳句』発行元の漫画社(社長菅生定祥)が発行していた月刊大衆雑誌の編集長になる。『金瓶梅』訳。その他娯楽小説を書く。
1952年(昭和27年)44歳 藤田知子と再婚。
1953年(昭和28年)45歳 角川書店入社。角川文庫俳句歳時記編集に従事。同時期に写真文庫『俳句歳時記(春夏秋冬新年五冊)』一人で編集刊行。5月、長男誕生。
1956年(昭和31年)総合誌『俳句』および『俳句年鑑』編集協力。長女泉誕生。11月、鎌倉材木座に移転。
1957年(昭和32年)49歳 前年より『現代俳句講座』全六巻を石原八束、原子公平、赤城さかえらと共同編集。河出書房より刊行。9月完結。
1958年(昭和33年)50歳 角川源義『河』創刊に尽力。この間『鶴』のあと『風』『諷詠派』『鯉』などにも参画。『現代俳句全集』第一巻に作品百句と石田波郷の「志摩芳次郎鑑賞」を掲載。
1959年(昭和34年)みすず書房より『現代俳句講座』と同じメンバーにて『現代俳句全集』全六巻を編集執筆。三年間かけて完結。角川書店退社。執筆一本の生活に入る。
1960年(昭和35年)52歳 2月、「志摩芳次郎激励会」が虎ノ門共済会館で開かれ勇気づけられる。出席者 – 石田波郷、赤城さかえ、中村汀女、橋本夢道、柴田白葉女、吉野秀雄、野澤純、石原八束、松澤昭、依田由基人など。
1962年(昭和37年)真昼文庫『俳句へのいざない』執筆。その他双葉社、一水社、芳文社などの月刊大衆雑誌に娯楽小説を書き糧とする。
1963年(昭和38年)55歳 番町書房(主婦と生活社)からの依頼で『石田波郷、現代俳句歳時記』を編集。昭和35・36年ころより取材、執筆。この年12月全五巻出版完了。春の部出版のあと波郷入院のため残りの全巻を独りで執筆出版完納。
1964年(昭和39年)『現代人の座右銘』(アサヒ芸能出版社)、サンケイ新聞に「名作のふるさと」2年間。
引き続き「民謡ところどころ」「民謡と伝説をたずねて」を都合足掛け七年間執筆。
1965年(昭和40年)『俳句人』十一月号より「石橋辰之助論」を発表。
1967年(昭和42年)『初雁』(東京医大理事長馬詰柿木主宰)の顧問になる。『秋』(石原八束主宰)同人参加。評論、随筆を気ままに多数執筆。『詩歌の旅』(徳間書店刊)。『現代の俳句(昭和の芭蕉たち)』(林書店刊)二巻出版。4月、材木座紅ケ谷へ転居。
1969年(昭和44年)『性唱詩歌』(三崎書房刊)、その他『江戸の遊里』『小説壇の浦夜合戦記』『江戸の三大奇書』等の訳著をエルム社、三崎書房から出版。
1970年(昭和45年)62歳 サンケイ全国俳句大会の企画に参加終生続く。鎌倉市長選挙で清水崑らと文化人団体を作り応援し正木冬木革新市長を誕生させる。
1974年(昭和49年)『四季』(松澤昭)『菜の花』(山口いさを)『曜変』(石田風太)『初雁』(飯田素蘭)各誌に執筆を没年まで続ける。
1977年(昭和52年)69歳 『入門俳句歳時記』(大陸書房)の執筆・編集を行い昭和53年までに全五巻完了。日本共産党鎌倉市後援会長を引受ける。3月、浄明寺へ転居。
1980年(昭和55年)72歳 軽い動脈硬化あり。タバコを止める。
1981年(昭和56年)長男尚平結婚。
1982年(昭和57年)74歳 現代俳句協会名誉顧問として表彰さる。6月、長女泉結婚。
1983年(昭和58年)75歳『現代俳人伝』三巻(大陸書房刊)『こころの歳時記』(広池学園出版社)執筆刊行。
1985年(昭和60年)「俳句四季」に「虚子伝」十回執筆。
1986年(昭和61年)主婦と生活社から『新訂現代俳句歳時記』出版の依頼来る。
1987年(昭和62年)『俳句をダメにした俳人たち』(中央書院刊)
1988年(昭和63年)『新訂現代俳句歳時記』(主婦と生活社刊)完成。
1989年(平成元年)80歳 2月、傘寿祝いと『新訂現代俳句歳時記』出版記念会を私学会館で行ってもらう。発起人(金子兜太、澤木欣一、原子公平、石原八束、松澤昭)。参加者(加藤楸邨。宇都宮徳馬。杉森久英、能村登四郎。草間時彦、有馬朗人、皆川盤水、上村占魚、青柳志解樹など二百名)。3月、急性骨髄性白血病の診断あり。
病床にて第二十回サンケイ全国俳句大会応募作品一万句以上の予選、その他の俳句の選、執筆を行っていた。
5月29日 午前8時逝去。享年80歳。

こうして年表をたどり本稿の主題である「寄り道 高野素十論」の特に水原秋桜子と高野素十の交友や近さを見てみると、俳句との繋がりが、初めは石橋辰之助―水原秋桜子―石田波郷の関係から始まり、特に石田波郷に親炙したことが分かる。素十と秋桜子の関係については主に波郷筋から仕入れたものだろう。秋桜子の仕事をしたことがないのは、潔癖な秋櫻子から遠ざけられていたせいではあるまいか。志摩芳次郎を可愛がった人達は皆一癖も二癖もある人達であったから、私にはそう思える。

濁を好まない秋櫻子のグループ。濁を好む―虚子、素十たち同様に、秋桜子一派の中にもやがて波郷や志摩芳次郎たちが入ってきて濁を好む俳人たちによって俳句が活性化したという構図も見ることが出来る。このあたりも面白いテーマかとも思う。志摩芳次郎の所見は俳壇ジャーナリストとしての嗅覚が嗅ぎ付けたものが多いのではないかというのが私の結論である。ただし、志摩芳次郎が書いたものは俳壇ジャーナリストとしてそれなりの信頼を置けるものであることも強調したい。俳句に関しては、5歳年下の波郷の意見を素直に信じていたことも、人生の哀歌を詠う基本の道を反れていないと感じるのである。


(つづきは本誌をご覧ください。)