東京ふうが71号(令和4年秋季号)

コラム はいかい漫遊漫歩 『春耕』より

松谷富彦

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散る花を追掛て行く嵐かな   権中納言藤原定家

 勅撰集『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の編纂者で『小倉百人一首』の選者として知られる鎌倉時代初期の歌人が、俳句(発句)も詠んでいたらしい。江戸時代前期に俳人、松江重頼が松永貞徳の指導のもとに編纂した俳諧撰集『えのこ犬子集』に搭載の「上古誹諧」の一句が見出しの定家句。
同撰集は、山崎宗鑑、荒木田守武以降の発句千五百三十句と付句千句に「上古誹諧」として『つくば菟玖波集』など古連歌集から選んだ百三十句を加えた貞門俳諧最初の公刊撰集である。俳諧研究者、加藤定彦氏によれば、〈俳諧の伝統と権威を誇るとともに、新しい時代の文芸である俳諧のもつエネルギーを遺憾なく爆発させ、以後俳諧は急速に流行〉(日本大百科全書の解説)することになった。
江戸俳諧考証家で、詩人、俳人の加藤郁乎著『俳諧志』(岩波書店刊)で著者は「門外俳句」の一項を設け、「上古誹諧」の収載句を紹介している。俳人、俳句好きの大方が「へえ!」と目を丸くするはずの詠者の名と詠句を引く。

くしの山たふれしぬべきいはね哉    鴨長明
夏山や思ひしげみのこがるゝは     畠山重忠
小田原は思ひの儘に苅おふせ      豊臣秀吉
ときは今天が下知るさつき哉      明智光秀
鶯も笠着ていでよはなの雨       千利休
止むれど花にさらばや帰る雁      沢庵和尚

〈 この種のものでは蓮谷の『温故集』に多数集められ、俳人以外のいわば門外俳句が拾われてあるためか為永春水の『閑窓瑣談』ほかの諸書に珍重引用されてきた。〉と書き、〈 古今、俳人外の吟草をひろく収集していることでは重厚の『句双紙』(コラム子註:江戸後期刊行の井上重厚編の俳界句合本)を逸してなるまい。〉と集中の十二句を披露している。紙幅の関係でその内から七句。

稲妻の根は黒谷や宵の闇        石川丈山
(安土桃山時代―江戸時代初期の武将、文人で漢詩の代表的詩人。)
落し水添水の身こそ悲しけれ      木下長嘯子
(丈山と同時代の大名、歌人で、その和歌は松尾芭蕉にも影響を与えた。)
矢を負し鶴の上毛やみのゝ雪      武田信玄
世の中は喰ふてはこして花の春      一休和尚
三ツ山を三ツ見る雪の朝かな      伊藤東涯
(江戸中期の儒者。新井白石・荻生徂徠らと親交、母は尾形光琳、乾山の従姉)
白沢の笑ふがごとき春日哉      池大雅
よし蘆の葉を引敷て夕涼       白隠和尚

〈 疑わしい句もあるが結構楽しい。服部南郭の作として「吉原の門に五尺の菖蒲かな」「島原や雨夜の梅の薄にほひ」などが挙げられてあったが、これなど、いわばシロウト離れした達吟と申すべきであろう。〉と郁散人は書き、光琳詠の〈 秋の夜や松を尋ねん稽古琴 〉〈 あるときは人の驚く案山子かな 〉二句を引き、同著の項を閉じる。


(つづきは本誌をご覧ください。)