寄り道 高野素十論
その十四
蟇目良雨
今号も新潟の俳誌「まはぎ」から「ホトトギス」に転載された俳句初心者向きに虚子が選んだ中田みづほと濱口今夜の対談による俳論の昭和6年2月号「ホトトギス」掲載の「風変りな句と平明な句」を見てみよう。
みづほと今夜は文中で「客観写生」の重要さを繰り返し説くのである。表題になっている「風変りな句と平明な句」であっても客観写生がされていればどんなに風変りな句であろうが平明な句であろうが構わないということを口を酸っぱくして言い続けている。ホトトギス作家の句を実例として取り上げて鑑賞し合っているのだが、実に的を得た評であり現代の私達にもたいへん参考になると思う。是非そんな目でこの章を読んでいただけたらと思う。
風変わりの句と平明な句
句修業漫談のつゞき みづほ 、今夜
(「まはぎ」昭和5年5月号掲載)
「ホトトギス」昭和6年2月号掲載今夜。
此前われわれは俳句の限界の広さと云ふことに就て話し合つたのであるが、實際現今のホトトギス雑詠を見ると、その形式に於てその内容に於て千差萬別・古い形容だけれども全く燎爛として咲き乱れた百花の園の如くであつて、如何に俳句と云ふものが、季題と字数とーそして客観寫生と云ふ三大約束の外には、何物にも拘束せられることのない、廣大無邊の領域を持つた藝術であるかがわかるのである。そこで今回は、前回に於てわれわれの述べた所を補足する意味で、最近のホトトギス雑詠の中から、二つの最も著明な對立、すなはち一方に於ては、極端に風変りな句、即ち或は著想が警抜であるか、亦は表現が人の意表に出でるものか、いづれにしても人が一見して奇なり妙なりとする底の句を択み、他方に於ては、一見すれば何等の異色なきが如くにして然も其の蔵する所の深いものか、或は何人の眼前にも轉がつて居さうな材料であつて然も今日まで表現せられなかつたものを忠実なる寫生者の手に拾はれて立派な藝術品として世に出でたものー従って我々作句に従事するものに、平素如何なる心用意が必要であるかと云ふことに就て暗示を與へて呉れる様な句を択み、異色ある句と目されるものは作者のある特別な個性、即ち天稟であろとか乃至は境遇であるとか一般性の極めて少い要素が強く作品の上に投影された時にのみ出来るのであつて、必ずしも常に我々の修養の指針となすべしと云ふべきに非ず、かと云つても斯様な奇警なる句風を、俳句の常道ならずと云ふも當らず、要は句風の如何に拘はらず、如何に事物の真を摑み是を表現し得たかが真の藝術作品なりや否やの岐路と目すべきであるーと云ふ様なことを、二つの極端を對照する事によつて、研究して見たいと思ふのである。
ではまづ、風変りの句とわれわれが名づける所のものから、先に論じて貰ふことにしよう。競漕やいさゝか川の歪み居り 山口誓子
今夜。
作者誓子氏が一種の天才である事は我人ともに認める所であるが、それだけに詩人としての変態心理的性能を多分に具有して居ることもまた争ふことの出来ない事實である。此句なども、競漕を叙するにその川の少しく歪つて居る事のみを叙してその情景を髣髴たらしむることに成効して居る所は、いかに氏の観察眼そのものが変態であるかを語るものであると思ふ。優れた未来派の絵を想はせる様な手法である。みづほ。
ホトトギスの雑詠で一番風変りな題材を取扱つて居るのは誓子君である。題材の奇異なる場合はもとより、敢て奇ならざる素材も君の感覚を透して表はれて来ると、いづれも甚だしく、変つた姿となつて来る。これは人の摸倣を許さざる獨壇場である。こういふ道を行つて立派になしとげる人は、ホトトギス作家多しといへども一寸他に類例がない。俳句に新らしい道を拓いた人のうちに数へ上げねばならぬ。誓子君にかかる俳句のあることを示されて啓発された人は少くないであらう。しかしこれは持つて生れたもののはじめてよく成し能ふところで、附焼刃では、ものにならぬこと論を俟たない。
俳句のやうに短い詩形においてもこのやうにはつきりと作家の性格はあらはれ得るのである。これは然し寫生が出来て居る結果なのである。作者の性癖性格を多分に交へたる客観寫生といふことが出来る。
今ここで純客観寫生といふ字を考へて見ると絶対的純客観なるものは人間として無理な注文であり、又俳句の本質上必要缺くべからざるものではない。大切な、なくてかなはぬものは寫生である。だから性格、性癖、又は全人格を傾倒して寫し得た句は其の人の比較的純客観寫生句であることもあり、或は主観的寫生であることもある。俳句をつくりはじめるとぢきに心持が詠ひたいとか感じが云ひあらはしたいといつて句が主観的の傾向を帯びて来勝であるがそれがよい句となるか否かは、その句が單に其の人の自身にのみ深刻がつた主観だけしか出し得て居ないか、或は、其の主観によつてものの真を表現し得たか、即寫生が出来て居るか否かによるものではあるまいか。
純客観寫生句は寫生が成功して居れば勿論間違なくよい。そして誰でも修練によつてある程度まで、だれの性格にも理解される鮮明な普編的な純客観寫生句がつくれる。うづもれて鰯の中の船釣瓶
といふ様な句は、純客親寫生句である。
長々と川一筋や雪の原
も純客観寫生といつてよいであらう。
しかし同じ客観寫生でも競漕やいさゝか川の歪み居り
とかいふ句になると、勿論この間の差違は紙一枚か或は殆ど無いともいへると思ふが、大へん偏した、即性格的の、または、特異なる客観寫生、言葉をもつとかへれば主観的客観的寫生といはねばなるまい。そしてまた、
春愁やこの身このまゝ旅心
とか、
春風に吹かれて遊ぶことならん
などといふ句は、一種の主観的寫生句といふのが一番理解し易くもあり、且つ當つて居るのではないか。即ち私がいい句よくない句と鑑別する方針は、その行き方がたとへどうあらうとも、要は寫生が成功して居るか否かの一点に帰するやうである。勿論、自分は議論はまづいし、言葉のつかひ方も正當でないと思ふが、考へて居ることはわかつてもらへると信ずる。
かくの如に假に名づけて分類すれば誓子君は、特殊なる性癖又は性格から出たところの客観寫生句をたくさんに発表して居るといへるやうに思ふ。