寄り道 高野素十論
その21
蟇目良雨
久女の悲劇の始まり (一)
「杉田久女が自らの句集上梓を望んで幾度か上京し虚子に会おうと試みたが、虚子はどうしても会わなかった」と前回書いた。ここからしばらくは久女の悲劇の始まりについて書き進めておきたい。
久女研究は虚子の撒いた「狂女伝説」を覆す大変地味な研究から始まった。
虚子の振りまいた狂女説とは
★昭和21年「ホトトギス」一月号、箱根丸を巡る虚子による「久女狂女説」「墓に詣り度いと思ってをる」
★昭和23年「文体」に「国子の手紙」虚子執筆。
★昭和27年句集『杉田久女句集』序文に虚子は久女の精神分裂を強調する。
の三つの文章に拠っているのであるが、俳人としてどんどん優秀になる久女を目の前にして虚子は二つの懼れに取りつかれた。
①「玉藻」の主宰者に据えた立子の地位を脅かす
②もしかしたら虚子よりも大きく育つこともある
である。
「ホトトギス」誌上では久女の作品を褒めながら心の内ではいかにして抹殺しようかと考えていたのである。久女は思ったことを直叙する芸術家肌がいつまでも抜けきれず虚子にも議論を挑んでくることがあった。久女にしてみれば師に疑問をぶつけただけなのであるが、小倉と東京の距離の間に生活し、普段から傍にいて接することが出来ない間柄であるから、手紙のやり取りだけを見ていると久女の本心は虚子にも見抜けなかったのであろう。
昭和6年、帝国風景院賞俳句山岳の部<英彦山>で
谺して山ほととぎすほしいまゝ
が金賞(賞金百円)に入選し全国にそのを轟かせたころから虚子は久女の成長ぶりが恐ろしくなってきた。実は「谺して」の句はかつてホトトギスに投句した句だがその時虚子は入選させなかった句である。
昭和7年3月に久女が「花衣」を主宰創刊した時の虚子の驚きは大変なものであった。ほとんど手作りであり発行部数も数十部であったが、内容は文芸の香りに溢れたものであった。このまま放置しておくと「玉藻」が危ない。何としても阻止しなければならなかった。虚子は「ホトトギス」の九州で活躍していた楠目橙黄子に、それとなく「花衣」廃刊を久女に伝えさせたと言われる。ただしこの裏付けは出ていないが。
虚子の巧妙さは飴と鞭の使い方にある。虚子は「花衣」を五号で廃刊に追い込むことに成功した。その代わり同7年10月号で「ホトトギス」同人に推挙した。
当時九州で名声を集めていた女流は実力はさほどでもない久保ゐの吉の妻久保より江であったが、彼女を押しのけて同人になると言うことの恐ろしさを久女はその後味わうことになる。即ち九州では吉岡禅寺洞と杉田久女のみが同人に推挙されたのである。
因みに星野立子、高野素十、山口誓子、飯田蛇笏、村上鬼城なども同人推挙された。秋櫻子は前年10月に「ホトトギス」を抜け出すこと事に成功している。
久女は自分の仕事を全国の仲間に見せるために句集の刊行を思い立ったのは、「花衣」を失ったためと思われる。昭和8年、昭和9年と久女は上京し虚子に句集の刊行と序文を希った。虚子は両年とも久女に会うこともしなかった。
「花衣」を廃刊して意気消沈した久女であるが、俳句への情熱は止むこともなく、昭和9年になると、遅ればせながら久保より江、竹下しづの女も同人に昇格して九州の女流間のわだかまりも薄れたので、男性会員もいる「白菊会」をつくり句会や吟行会、それに俳句研究会も熱を込めて指導した。その会報はガリ版摺りのものであったが、内容が濃く、虚子はこれを読んで再び久女の恐ろしさを感じた。そこでこれまで「ホトトギス」に入選を繰り返していた久女の句を入選させなくなった。
久女は何故?と疑問に思いつつも俳句への熱情は忘れず「俳句研究」へ俳論や句作品を発表していた。
昭和11年になって句集出版を諦められない久女は水原秋櫻子(久女のお茶の水高女の同級生に秋櫻子の姉がいたことや秋櫻子の王朝風な句作りの共鳴していたから)に頼んだり、徳富蘇峰に頼んだりした。二人とも親切に労を採ってくれて刊行寸前まで行ったのだが、印刷屋が虚子に睨まれたら仕事が来なくなると言って最終的には断ってきたのだった。
虚子はこの事実を知った時から久女の抹殺を決意した。
2月に娘の章子(17歳)を連れてヨーロッパの旅に出て乗船した箱根丸が門司沖に停泊した時、久女は「白菊会」の仲間と虚子に挨拶にランチボートで出かけたのだが、虚子の取り巻きによって会えず終いになった。虚子はこの時の久女の行動を異常であったと久女の死んだ戦後になって「ホトトギス」に「墓に詣りたいと思ってをる」に書いた。
久女は虚子の思惑を知ることもなく、句集出版の願いの手紙を何通も出し続けた。この多くの手紙は再び虚子の手にかかり戦後昭和23年に「国子の手紙」に文面が狂った内容を書き連ねていると創作されて「久女狂女伝説」の第二段に利用されてしまった。
久女は悶々として昭和10年代を虚しく過ごし、句稿を大切に抱えて戦争時代を乗り切ったのであるが、精神が昂揚する「橋本病」という甲状腺異常のために夫宇内と衝突し続けて昭和20年の暮に手の付けられない状態になり収容された所が筑紫保養院という精神病院に入れられてしまった。終戦後の九州各地はどこも米軍の爆撃と航空機の機銃掃射で破壊されて病院でまともに残ったところはなったのだ。たまたま入院出来たところが精神病院であり。このために久女は精神病院で狂い死んだという噂が流れそれを利用して虚子は「久女は私の推定した通り精神異常者であるから同人削除や句集の刊行を許可しなかった」というストーリーの裏付けにしようとした。
さらに昭和27年、長女の昌子さんが首を低くして『杉田久女句集』の刊行許可を虚子に依頼した時も序文に「久女狂女説」を付け加えたのである。久女の長女である昌子さんがこの時異論を唱えればよかったのかも知れないが、ようやく念願の久女句集が出来上がろうとしている其の時に異論の出しようがなかったと、後述している。
以下のように虚子は三回に亘り「久女狂女伝説」を創作したのである。