コラム「はいかい漫遊漫歩」「春耕」誌より転載
松谷富彦
220 テキヤ俳人・正道寺宏一の話(上)
映画『男はつらいよ フーテンの寅』シリーズで〝フーテンの寅 〟ことテキヤの車寅次郎を演じた国民栄誉賞俳優、渥美清は、「風天」の俳号で〈 お遍路が一列に行く虹の中 〉〈 赤とんぼじっとしたまま明日どうする 〉〈 やはらかく浴衣着る
今回取り上げるのは、露天商を生業にした元テキヤの俳人、正道寺宏一の話。正道寺は、紙芝居『黄金バット』の作者で、風俗考証家、評論家、加太こうじさんと旧制の高等小学校時代の同級生だった。
加太さんが1985年に上梓した『街のエリート聞き書き集 名もなく すがしく したたかに』(筑摩書房刊)から引く。
「風車を売る俳人」のタイトルの聞き書きの前文で加太さんは書く。
〈 栃木県の宇都宮市へ講演に行って、正道寺宏一という高等小学校の同窓生が、近くの鹿沼市にいたことを思いだした。講演が終わってから、電話帳を調べてみると宏一は鹿沼市で生きていた。すぐに電話をかけたが不在。帰宅して東京から夜の8時頃に電話をかけると宏一が電話口にでてきた。〉
加太さんは、三か月後の1984年(昭和59年)秋に同窓会があって、その席で正道寺宏一と三十余年ぶりに再会。〈 正月に私の家へ遊びにきてくれたので、彼は彼なりに波乱に富んだ生き方をしていたことがわかった。露店商人の仲間に入る一方で俳句を作り、角川賞の候補にまでなる文学テキヤだった。テキヤは廃業して紙製品を商っていたが、今はそれもやめて一人暮らしをしている。俳句では正道寺宏と称している。
少女にえくぼ靨雪片迷ふ硝子越し 宏 〉
聞き書きから正道寺の肉声を引く。〈 このあいだの同窓会では、加太さんのおかげで、ずいぶん、なつかしい人たちと逢えた。…同窓生のなかにカシオ計算機の社長の樫尾忠雄なんて大物がいたなんて、あの席で樫尾さんとはじめて逢ってわかったんです。樫尾さんは目立たない人だったらしくて、私は樫尾さんは知らなかった。大録優にも再会したが、勉強がよくできてスポーツの選手で、将来、日本を背負って立つ人になるかと思っていたのに、何十年ぶりかで逢ってみたら茨城県の村会議長で釣宿の経営者だった。いるか、いないかわからなかったような樫尾さんは日本中で広告をしている大企業の社長。世の中、どうしてこうなったか、子どものときのイメージだけではわからないですね。〉
加太さんが応える。〈 樫尾さんに、あんた、なんでカシオ計算機の社長になったのときいたら「からだが弱かったからです。からだの丈夫な者は兵隊にとられて死にました。私は弱かったから兵隊にとられないで、電気について勉強することができたんです。本当なら弱い者が先に死んで、丈夫な者が長生きするのに、私たちの時代は、あべこべになったんです」と樫尾さんは言っていた。大録さんなんか兵隊に六年もとられて、さすがの秀才も戦争が終わったら27歳で、東京の家は焼けてないから帰るところは父親の出身地の茨城県の東村。それで釣宿の稼業をついだんです。…からだが丈夫な者が先に死ぬ世の中なんか、いやな世の中です。〉