東京ふうが82号(令和7年夏季号)

韓国俳句話あれこれ 27

本郷民男

▲ 歌原蒼苔そうたいの戦地エピソード

 正岡子規の遠縁の歌原蒼苔そうたいわたる)が、日露戦争で負った心の傷の為に植民地へ移住したと、これまで考えられて来ました。けれども、これに反する文献が残っています。
 1904年(明治37)12月2日に、日本側が旅順要塞での戦死者を収容するために、赤十字旗を振らせました。すると射撃が止んで片言の日本語がわかるロシア兵が出て来ました。将校である蒼苔そうたい、ロシア側の10人以上の将校も前に出て握手をし、ロシア兵を通訳として語り合い、ウオッカを酌み交わしました。死体の収容が終わり、互いの勇敢さを称え、健康を祈って別かれてから、また撃ち合いました。「今までこんな気持のよい事はなかつた。おそらく今後にもあるまい」(ホトトギス1905年1月号の少尉恒「戦地通信―戦場の握手」)。
 日露戦争では、まだ騎士道・武士道・国際法といったものが健在で、極悪非道の現代戦とは違うかも知れません。

大邱テグと農業

 蒼苔そうたいが移住した大邱テグは、ソウルと釜山の間にある大都市で、日本なら名古屋にあたります。海辺の名古屋と違って内陸の盆地です。そして、平野の乏しい国に数少ない平坦な場所です。米などの農産物が、いろいろ作れます。蒼苔そうたいは蜜柑産地の松山の出身です。けれども、蜜柑は何と第二次大戦後に南部の済州島で栽培が始まったほどで、蒼苔そうたいの頃には栽培不可能でした。ちょうど日露戦争の後にイギリス人や日本人の先駆者が、大邱テグで林檎栽培を始めました。現在の大邱テグの夏は東京並みに暑いですが、昔は長野や青森のような気候でした。
大邱テグの林檎はあっという間に普及して、青森に次ぐ産地となります。大邱テグの林檎は大半が下関へ運ばれました。そして、九州から関西にかけては、林檎といえば大邱テグ林檎になりました。

蒼苔そうたい大邱テグ移住と虚子

 蒼苔そうたいの年譜では、1908年(明治41)5月に、大邱テグ移住となっています。1910年に発行の俳人名簿では、未だ松山となっていますが。意外に確かなのが、高浜虚子の『朝鮮』(1912年2月発行。小説とされるが、むしろ1911年の旅の紀行文)です。
 虚子は大邱テグ郊外の田舎で果樹園をやっている、古い友人を訪ねました。川に沿って林檎や苺が植えられていました。友人は3、4年前にこの地へ移住し、林檎が花を付けるようになっていました。そこへ牛が乱入し、果樹を踏み荒らしたので、友人は鉄砲で牛を撃ち殺しました。この友人の名前が書かれていませんが、歌原蒼苔そうたいであることが誰の目にも明らかです。
 虚子はこの『朝鮮』とホトトギスを知人などに贈呈し、ホトトギス1912年3月号に、「先輩知友にホトトギスの購読を望むの記」と「五氏より」という特集を組みました。そこに、「歌原蒼苔そうたい君より」などがあり、大邱テグに関する記述が不名誉であるからと、虚子に決闘を申し込んだという逸話が書かれています。

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