東京ふうが57号(令和元年春季号)

コラム はいかい漫遊漫歩 『春耕』より

松谷富彦

(96)  ゆっくりと花びらになる蝶々かな 小林 凜

 本コラムの平成28年5月号と同29年9月号で紹介した〝ランドセル俳人〟小林凜君も高校生になり、俳句・エッセイ集『ランドセル俳人からの「卒業」』(ブックマン社刊)を平成30年4月、上梓した。
小学校5年生のとき、〈いじめられ行きたし行けぬ春の雨 ― 11 歳、不登校の少年、生きる希望は俳句を詠むこと〉の長いサブタイトル付き句集『ランドセル俳人の五・七・五』(同社刊)、翌年には聖路加病院の日野原重明先生との往復書簡付き自句自解句集『冬の薔薇立ち向かうこと恐れずに』(同社刊)を刊行。「卒業」は、それに続く第三弾である。
高校生俳人となった凜君(本名凜太郎)が、俳句を詠むことで培った鋭い観察眼で綴るエッセイ。そこには小中学校9年間の絶望的な「いじめ」の体験記録が 生々しく再現され、読む者の胸を打つ。凜君は静かに書き起す。
〈僕は、いくつもの扉の前に立っていた。扉にはそれぞれ「小学一年」「小学二年」「最初の中学校」「二校目の中学校」などと、各学年の札が貼ってあった。「小学一年」の扉を開けて覗くと、そこには、同級生の男女からサンドバッグにされている、あざだらけの僕がいた。先生は見て見ぬふりをしている。僕は、何も言わずにその扉を閉じた。〉
〈あるとき、休み時間に教室内を歩いていると、背中に強い衝撃を感じ、僕はうつぶせに倒れ込んだ。左の顔面を強く床に打ちつけた。激しく痛んだ。薄眼を開けると、逃げていく後ろ姿が見えた。彼はクラス一の悪ガキ大将で、頻繁に僕を痛めつけていた。保健室で手当てを受けたが、顔面の左側は湿布で覆い尽くされ、左眼は腫れ上がっていた。・・・突き飛ばした犯人の名を担任に伝えると、先生は、「本人は否定しています」とだけ家族に言った。結局、そのときは「僕が勝手にこけた」という判決になった。〉
〈こんなこともあった。夜、風呂に入ったとき、母が悲鳴を上げた。僕の腰から尻にかけて、広範囲に靑あざができていたのだ。もう少し上なら腎臓破裂が起こっていたかもしれない、と家族は心配した。それもあの悪ガキ大将の仕業だった。・・・翌日、彼の名前を出しても、先生は全く認めようとしなかった。その後、家族が青あざの写真を見せると、ようやく先生が「この子がやった」と連れてきたのは、なんと、事件とは何の関わりもないおとなしい同級生だった。先生は、犯人をでっち上げたうえに、彼に謝れと言ったが、僕は「彼は関係ない。だから無実の人の謝罪は聞かない」と、その場を立ち去ろうとした。しかし、先生は僕の首根っこをつかみ、彼の謝罪を聞かせた。〉


(つづきは本誌をご覧ください。)