東京ふうが57号(令和元年春季号)

「旅と俳句」
平成二〇年 シルクロードの旅 天山北路

石川 英子

Ⅰ 西 安
1 – はじめに
2 – 出 発
3 – 西安市初日
4 – 西安近郊見学
5 – 秦始皇帝陵見学

6 – 九成宮醴泉銘の大碑
7 – 西安の俳句
Ⅱ 敦 煌
1 – 敦煌空港着 第一日目
2 – 莫高窟 鳴沙山 月牙泉雷音寺 第二日目
3 – 沙州市場
4 – 玉門関 陽関他の観光 第三日目
5 – 敦煌最後の晩餐
6 – 白馬塔他 第四日目
7 – 再見敦煌 柳園から列車の旅
8 – ウルムチ方面行寝台硬臥列車の旅
9 – 敦煌の俳句
Ⅲ 新彊ウイグル自治区
1 – ウルムチ駅の喧騒他 ウルムチ第日目 2月18日(月)曇
2 – 吐魯番観光 2月19日(火)快晴
3 – ウルムチ第三日目 2月20日(水)晴れ
4 – 再びの西安
5 – 帰国の日 2月21日(木)快晴
6 – 旅を振り返って

Ⅰ 西 安

6・九成宮醴泉銘の大碑

2月13日(水) 西安四日目 「九成宮醴泉銘」の大碑見学と大雁塔の写真 

 7時起床。ホテルの朝食は例のバイキング。その後宝鶏へ行く為、ホテル前よりタクシーにて西安駅に行ったが、春節の休み明けの帰省ラッシュで西安駅は数万人の人出である。窓口のみでは間に合わず、車で出張している切符売りの移動販売窓口が3~4カ所あり、一列に並ぶ様に鉄道警察が大声を上げている。

 9時迄辛抱強く並んだが、列車の時刻に間に合いそうもないので、バスターミナルに行って一番早い宝鶏行きバスの切符を買って荷物を検査ベルトに通し、駆け足でバスに乗ったとたんに出発した。9時50分に出て12時20分宝鶏着。四方八方から黒煙を吐きながらバスが次々と到着するので長居は出来ない。

 宝鶏は、人口370万人で西安に次ぐ大都市でもある。黄河文明発祥地点で多くの遺跡が発掘されている。大通りに出た処で女性運転手のタクシーを拾う。「九成宮は知らない。」と気乗りしないのを路線地図を見せて是非にとお願いすると、タクシー会社に電話で問い合わせて、方向を確認して12時半出発。急いでいたので昼食を忘れていた。

 1時間位街の中を走って、車にガスを充填する為にスタンドで降車する。乗っていると爆発する恐れがあると言う。ガス田の多い中国ではガスタクシーが多く、ガソリン車は数える程の高級外車のみである。

 土産物屋の並ぶ街並み(道路に積み上げて売る)を抜けて行くと、彼方にうっすらと山並みが見えて来る。この町は三方を山で囲まれている地形だ。街角にたむろする男達に数回尋ねて方向が定まり、どうやら九成宮に向かって車は速度を出しはじめた。帰りにわかった事だが、宝鶏駅から路線バスが出て居た。処どころに唐もろこしを積み上げ、鶏や豚や牛、羊等々飼っている日干し煉瓦建の家々が散らばる農村がある。

 大きな車止めを越えると山の高度が増すにしたがって雪が大分降って来て、日光のいろは坂の様な危険な細いくねくねと曲がった径をゆっくりゆっくり安全運転する。女性運転手はストレスの為かやたらと長髪の髪の頭をボリボリと掻きむしる。

 「こんな処でなくとももっと良い観光地が有りますよ。」と、「法門寺」や「古大散関」等をしきりにすすめる。正人は、「どうしても見たい碑が有るので・・・。」と一歩も引かない。対向車のトラックがこぼれる程の荷を積んで、やっとの事で車止めをすり抜けて来る。途中頂上かと思われる辺りで、乗用車や観光バスとも会った。雪雲の中を抜けると日干し煉瓦の家並みの村がポツポツ出て来た。道幅を広げる為、崖に掘った「ヤオトン」住宅が壊されて、土の家の集落が出て来て、広大な遊園地の前を通り、三叉路を右に曲がって村人に聞いて、運転手はニコニコ笑いながら車をバックさせた。

 3時丁度、麟遊という村に着いた。運転手が「九成宮の離宮跡に到着しました。」とドアを開けた。宮殿跡は、夏場は観光地として賑わうらしいが、九成宮の碑のみを研究の為に雪の山を越えて登って来る客は少ないらしい。5、6人の男達の堂守りが太い鎖の南京錠を裏から開けて、20元の入場券を2枚事務所から持って来た。ガラス戸をかぶせる前の美しい醴泉銘の刻字の全景が写っている券なので、公彦への土産にあと2枚買うと男達は不思議な顔をしていたが、女性の学芸員が出て来て碑亭の前面の扉の錠を開けてくれた。


(つづきは本誌をご覧ください。)