東京ふうが81号(令和7年春季号)

韓国俳句話あれこれ 26

本郷民男

▲ 正岡子規の遠縁の歌原蒼苔

 子規の母方の一族に、今の韓国の大邱テグに長く住んだ俳人がいました。天皇家ではありませんが、つい父系を考えます。けれども、子規で重要なのは、母系です。子規(常規つねのり)の祖父は儒者の大原観山(本名・有恒)で、子規は観山の長女の八重と正岡常尚つねなおの子です。
 大原観山の妻は儒者の歌原松陽しょうようの娘のしげで、重の弟にすすむと誠がいて、歌原誠の息子が蒼苔そうたいひさし)です。大原観山は子供の頃に歌原松陽に学びました。観山は加藤家の三男ですが、姉の嫁いだ大原家に子がいないので、姉夫婦の養子となって大原家を継ぎました。子規の父は佐伯家の二男ですが、母の実家に後継者がいないので、祖父の養子となりました。父の常尚はたった14石の軽輩で、文武はまるでだめ、酒癖が悪い人でした。子規は学者の家系の母方の助けで良い教育を受けることができました。子規と蒼苔は親戚としてはやや離れていますが、子規の育った家と歌原家は、村上家を挟んで隣という、実に近いお隣でした。

▲ 蒼苔の学業

 歌原蒼苔は1875年(明治8)に、松山の湊町に生まれました。1890年から、松山中学に学びました。けれども、三年生になる時に、東京英語学校へ転じました。さらには明治議会中学校へ転じて、1894年(明治27)3月にそこを卒業しました。同年9月に一高へ入学しました。
 ここまでは、歌原昇『歌原蒼苔句集 ―今と昔の蒼苔句集― 』 の蒼苔略歴から引きました。ただ、計算が合わず、1889年に松山中学に入学したと思われます。『遷喬』という明治議会中学校公友会で発行した雑誌が残っています。1893年4月に発行の3号に、歌原恒が載っています。「本学5年生」として。1894年5月の『遷喬』10号には、3月31日に本学第1回卒業生が卒業し、答辞を歌原恒が述べたなど、蒼苔が首席卒業と書かれています。7月に発行の同11号には、歌原恒が本校の特別推薦で一高へ入学したと書かれています。そのほか、蒼苔は論説や英詩の翻訳など、多彩な才を示しています。

▲ 俳句の始まり

 エリートコースを走って来た蒼苔が、一高に入ってから狂いだしました。中学生時代から文学に興味のあった蒼苔が、藤野古白(きよむ・1871~1895年)から、俳句を学びました。古白は大原観山の次女の夫である藤野すすむの息子です。古白は正岡子規と俳句の革新を始めた同志で、精神に異常を来して自殺しました。藤野家は早くから東京にいたので、子規は藤野家に下宿していたこともあります。
 俳人の蒼苔が注目されたのは、子規が発表した俳論「明治二十九年の俳句界」の以下のような文からでしょう。

蒼苔も昨年中に著しく進歩す。其句奇抜なる者又は實景を寫して新鮮なる者多し。

水の上や蜻蛉飛べば蜻蛉飛ぶ
蜻蛉や抜きそろへたる剱のさき
蔦青き小使部屋のうしろかな
朝寒み小鳥ヒンクワツツウと鳴く
落葉がら/゛\饅頭なんど賣る小店
藪蔭や小瀧氷りて山家あり
化鳥飛んで谷間に冬の日は暮れぬ
冬枯や梟養ふ野の小家

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