蟇目良雨講評
東京ふうが 平成29年夏季号「墨痕三滴」より
浮城を緑雨すぎゆく曾良忌かな 乾佐知子
曾良の忌日は宝永7年5月22日(1710年6月18日)頃とされている。曾良研究者の作者にとって曾良は故郷の偉人。浮城と言われる高島城の上をいま、緑雨が過ぎてゆく。曾良の里帰りのように感じた作者。
曾良の忌日は宝永7年5月22日(1710年6月18日)頃とされている。曾良研究者の作者にとって曾良は故郷の偉人。浮城と言われる高島城の上をいま、緑雨が過ぎてゆく。曾良の里帰りのように感じた作者。
桜貝は穏やかな波の寄せる海浜を生息場所にしている。したがって桜貝の採れる海岸の様子は自ずから想像できる。掲句は穏やかな波の寄せては返す砂浜の対岸に突然軍艦島が見えたと驚いているのだ。長崎県の軍艦島を思い出すが作者によれば南洋の光景らしい。南洋に出兵した父の戦友を弔う慰霊の旅に参加した作者ならではの視点かもしれない。
絵踏の厳しく行われてきた時代にあって、島なら役人の追及も難しかろうと多くの隠れキリシタンが島に住みついた。荒波に揺られて、絵踏の行われた島に上陸する第一歩はさぞ緊張したであろう。このような光景を余すところなく掲句は描き切った。
斉藤茂吉の忌日は2月25日。掲句を読みかえれば〈 225も226も雪の中 〉となる。2月25日も2月26日も雪の中でしたという句になるのだが、思えば、歴史上の出来事は私たちの頭の中に寸分の隙も無く並んでいる。1936年の二二六事件も1953年の茂吉の死も事実は20年ほどの違いがあるにせよ記憶の中には一日違いのように背中合わせに思えてくるのである。そんなことを思い出させてくれる句である。
私たちの年代になると母の姿とはいつも割烹着を着て何かをしているのであった。揚句も冬菜に塩を振る母の姿を思い出している。この冬菜は白菜であるかも知れない。ぱらぱらと塩を振って白菜から余計な水分を抜いている母がいる。そして同じことを作者もやっている。塩を振るひと手間が料理を美味しくさせてくれる。母の愛情が詰まるのである。
いつも類想を避けた句を提示して我々を楽しませてくれる。シドッチは禁教令により茗荷谷のキリシタン屋敷に収監されたイタリア人司祭。新井白石と知り合い影響を与えた。数年間の幽閉の後、地下牢で獄死。作者はその死を悼んでいる。「釣瓶落し」に歴史の流れの速さ、無情さが表現されている。
草花の名前で感心するのは「ねこじやらし」「かやつリ草」「おしろい花」など実に奥行きのある草の本質に迫ったものがあるが、「月下美人」も加えていいだろう。夜になって人が寝静まるころ咲きだすこの美しい花はまさに月下の美人である。A Queen of the Nightは英名で夜の女王。咲きだすころ花の前に侍っているとこの句の通り喘ぎ喘ぎ香りを吐き出しながら咲き始める。「只ならぬ」は見た人の実感。
どきっとする句づくり。春一番が吹き着物の袖を捲くったのであろうか、腕に彫られた龍の刺青が見えてしまったのだが主人同様に老いぼれた龍になっていたということ。春一番では出色の句。
よく言われるのは、みちのくの人や日本海側の人は無口だということ。寒いから、風が強いから口を開けるのが面倒であるという理屈である。
津軽、秋田で「ゆさ」「どさ」「け」という短い言葉がある。どこに行くの?が「どさ」。お湯に行きますが「湯さ」。食べなさいが「け」。じつにシンプル。作者は能登に行ってこれに近い言葉の体験をしたのだろう。鰤起しが鳴り渡っていて恐れる作者に対して能登人は何も言葉をかけてくれなかったのだろうか。因みに作者はおしゃべりな小倉人。
松手入れには凡人の知らない世界があるのだろう。手を付ける前に長考している頭領の姿をよく目にする。人の寿命以上に長生きする松をどのように成長させていくか遠大な構想をもって手入れしている。終始静かで哲学的でもあるのは松に相応しい。