東京ふうが68号(令和3年冬季・新春号)

韓国俳句話あれこれ 13

本郷民男

▲ 俳誌『木兎』

 大正13年(1924)にクヮンジュ光州で発行された『木兎』三月号を持っています。一月に創刊されて3号となります。光州は韓半島の西南部にある大都市で、全蘿南道から独立した直轄市となっています。光州の俳誌はこれ一冊しか手に入らず、かろうじて光州の状況を知ることができます。本文が10頁、広告が5頁という、小さな雑誌です。雑詠の選者は篠原空螺で、光州の西のヨングヮン霊光に住んでいました。大正3年の俳人名簿に、江原道チュンチョン春川に住む篠原徳太郎として載っています。冬のソナタの舞台となった春川には、池田義朗と篠原空螺を中心とするつぐみ鶫会がありました。
空螺はホトトギス系の古くからの俳人です。


▲ 吉岡禅寺洞の近詠

火になりて松毬見ゆる焚火かな
ふらここの子の汚したる砂掃けり
低垣の木の芽こぼれも見えにけり

表紙の裏という主宰の定位置に、雑詠選者ではなく、その師匠らしい吉岡禅寺洞(1889~1961)の三句がゆったりと載っています。禅寺洞は福岡でホトトギス系の『天の川』を主宰しました。禅寺洞というと新興俳句の旗手で後にホトトギスから除名されますが、この当時はまだホトトギス調です。冬の焚火、春のブランコと木の芽と季語を入れて定型です。昭和2年6月の『天の川』雑詠には、福岡の篠原空螺として句が載っています。空螺は福岡に行く前から、禅寺洞と接点があったようです。


(つづきは本誌をご覧ください。)