東京ふうが68号(令和3年冬季・新春号)

コラム はいかい漫遊漫歩 『春耕』より

松谷富彦

150 虚子は社会性俳句をどう読んだか

 戦後の社会性俳句を主唱した沢木欣一のプロフィールから入る。

 1919年、富山市に生れた欣一は旧制四高入学と同時に俳句を始め、「馬酔木」「寒雷」などに投句、加藤楸邨、中村草田男に師事。42年に東大国文科入学、翌年11月臨時召集で金沢山砲隊に入営、句集用の草稿を後に妻となる先輩俳人の細見綾子に託して一週間後、旧満州牡丹江六九〇部隊に転じる。

 渡満二か月後の44年1月、欣一は肺を病み牡丹江陸軍病院に入院、3月に綾子、原子公平の手で草稿が第一句集『雪白』として刊行、病床に届く。間もなく除隊になり、帰国、同年9月、東大を卒業。

 終戦の翌年、欣一は原子らと俳誌「風」を創刊、金子兜太も参加、五十年代には「社会主義的イデオロギーを根底に持った俳句」を主張、いわゆる社会性俳句と呼ばれることとなる。欣一の社会性俳句の代表作と言われる〈 塩田に百日筋目つけ通し 〉を含む「能登塩田」連作(1955年)による第二句集『塩田』は、西東三鬼が激賞するなど話題を呼んだ。

 本題に入る。先に六話に渡って紹介した『虚子は戦後俳句をどう読んだかー埋もれていた「玉藻」研究座談会』筑紫磐井編著(深夜叢書社刊)の「第六章 社会性俳句」の沢木欣一の項(第37回研究座談会)から引く。

 座談会記録の冒頭、欣一の「能登塩田」連作から抜いた五句が並ぶ。

塩田に百日筋目つけ通し
塩一石汗一石砂積み崩し
貧農が海区切られて塩田守る
水塩の点滴天地力合せ
夜明けの戸茜飛びつく塩の山

虚子 塩田は夏となるべき季題でせう。いい句が沢山生まれればやがて夏期の季題として歳時記に収録されるでせう。

虚子 [力のある句ではないか(深見けん二)]さうですね。或る力を以て塩田を写生したものと思ひますね。

虚子 [嘘がない(星野立子)]塩田に託して、自分の思想を詠はうとしてゐるんだね。写生なら、もう少し言ひやうがあると思ふ。句ががらりと変って来る。或思想を持って作れば斯ういふ風の句になる。…季題といふことを、どういふ風に考へてゐるか、聞いてみたい。この人の意図する如きは季の無い詩を選む方が自由ではないか。

夕日沖へ海女の乳房に虻唸り

虚子 これは写生的じゃないか。いゝですよ。

虚子 [此は何ら思想が入っていない、正直なのだ(立子)]かういふ人には正直な人が多いよ。

虚子 [寝ても覚めても社会性というのではなくて自然を見れば自然を詠う(清崎敏郎)]それは、さうですよ。要するに各々社会の一員ですからね。社会性とか人間性とかいふものは自然に現れる。(次話に続く)


(つづきは本誌をご覧ください。)