東京ふうが33号(平成25年 春季号)

銃後から戦後へ 24

東京大空襲体験記「銃後から戦後へ」その25

= 客観時間と主観時間 =

鈴木大林子

この連載も25回を数え当方もそろそろネタ切れ。読者の皆様もウンザリし始めておられる頃と思われますので、今回は少々脱線して私の若い頃に経験した不思議な話を書きます。

 時は昭和25年夏。この昭和25年と言いますのは日本のプロ野球が現在のセントラルリーグとパシフィックリーグに分裂した歴史的な年なのでよく憶えております。場所は当時の田無町と保谷町の境、西武新宿線の東伏見駅と西武柳沢駅の中間辺り。今ではおそらく5・6階から7・8階建てぐらいのマンションが建ち並んでいると思いますが、その頃は西武電車と呼んでいた新宿線に沿って走る4メートル程の幅の道路があって反対側は一面の畑ばかり。

東伏見駅は近くに関東三稲荷の一つ(自稱か)である東伏見稲荷神社のほか、早大のグランドもあって昼間は結構人通りもありましたが、夜ともなれば人っ子一人通らない田舎道でした。因みに田無町と保谷町は北多摩郡に属し、その後沿線の急速な開発に伴って発展、揃って市に昇格しましたが、近年この両市が合併し西東京市という極めて無味乾燥な市名に変ったのはかつて住人だった者の一人として残念でなりません。

脱線ついでに申し上げますと、田無という個性的な地名は地形から来たもので、田無駅を含む市の中心部へはどの道を行ってもすべて登り坂。私が旧制国立中学(現在の国立高校)へ通学するため中央線の武蔵境駅に出るバスを利用していた頃、戰況の悪化によってガソリンの配給がなくなり木炭を燃して走る木炭バスに変ると、行きはよいが帰りは駅近くの坂の下で停車。車内には運転手と老人(何才以上かは不明)と子供を残して全員下車。女性はこれも女性の車掌に誘導されて徒歩。残る男性は全員バスの後押しをするわけですが、男性の人数が足りないとバスが坂を後戻りして後押しの男達を踏みつぶしてしまうおそれがあるため、車掌が徒歩の女性の中から屈強そうな人を選んでムリやり後押しの中に加えていました。勿論、後押ししたからと言って運賃が割引されるわけでもなく誰も不平不満を言う者はありませんでした。

話が横道に外れましたが、要するに町全体が高地にあるため水の便が悪く、稲作が出来ないことから田が無くて畑ばかりだから田無。これに対し隣りの保谷は谷地で水が豊富なので稲作が可能だから保谷。但し、田無は人文地理上は青梅街道の真中の宿場町として江戸時代から栄えていました。

(つづきは本誌をご覧ください。)