東京ふうが49号(平成29年春季号)

曾良を尋ねて

乾佐知子

92 ─ 『奥の細道』における「奥州平泉」の役割 ─

 『奥の細道』には明らかにフィクションとみられる個所がいくつかあるが、中でもこの「仙台から石巻」にかけてのくだりが最も大胆といえよう。わざと日にちをたがえたり、あれこれ道に迷って苦労したり、見えない筈の金華山をよんだりと、さまざまな表現法を駆使して巧みに演出効果をねらっている。

 旅の主人公が道に迷い、宿に苦しみながら、みちのくを心細い思いで旅して行く劇画的な効果もみてとれる。が、二人の実際の旅は充分に行く先々を調べつくして、先方とのコンタクトも取りながら行動しているのである。

 松島から平泉までの距離はおよそ二十余里(約八〇キロメートル)で、五月十三日の午前八時ごろ二人はようやく平泉に到着した。

 平泉に着くと文面は一気に活気を取り戻す。生き生きとした芭蕉本来の流麗な文章に、作者の興奮した高揚感がみてとれる。

三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先づ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。

(中略)

 「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

 夏草や兵どもが夢の跡

 この章が冒頭の「月日は百代の過客にして行き交ふ年も又旅人也」と照合しており、人生の流転の中に永劫なものをとらえようとする思想が色濃く感じられる。芭蕉は人生と同じように自然も又流転をくり返していると考えていたのであろう。「夏草」の句は自然と人生、そして生と死を対比させながら深い哲学的な要素をもつ俳句として完成されている、といわれている。

かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散らせて、珠(たま)の扉(とぼそ)風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢と成るべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌しのぐ。暫く時千歳の記念(かたみ)とはなれり。

 五月雨の降り残してや光堂

 曾良の日記によると、経堂は「別当ノ留守ニテ不開」とあり、実際には見ていない。しかしこの部分も芭蕉の想像力と卓越した筆致により文中でも特に名文として有名である。

 奥州藤原一族の築いた中尊寺は、その文化のシンボルとして建てられたが、栄華を極めた藤原氏は四代目泰時の時代に頼朝の策略にあい、一族ごと滅ぼされてしまった。

 歴史の回顧で始まるこの章は、藤原氏の旧跡をのぞみ、さらに義経の最後の合戦の場となる高館に登って、眼下に北上川を眺めながら藤原氏や義経の悲惨な最期に世の無情を思いつつ涙する。芭蕉がこの地を訪れる五百年も前のことであった。


(つづきは本誌をご覧ください。)