曾良を尋ねて
乾佐知子
108 ─ 芭蕉・大智院へ行く ─
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
『奥の細道』の最後の句として有名である。この句は西行の歌「今ぞ知る 二見の浦のはまぐりを 貝あはせてと おほふなりけり」を意識したものといわれており、また、旅立ちの際に詠んだ「行春や鳥啼き魚の目は泪」に呼応したものとしても名高い。
『細道』収録62番目の句である。「蛤のフタ(蓋)とミ(身)が切り離せぬような離れ難い思いを振り切って私も懐しい人々に別れを告げ、フタミ浦(二見浦)の方に向かわねばならない」。「ふたみ」の「み」には、二見浦を「見」にゆくという意味もある。
実は当時の人々の伊勢巡りの一番の目的は二見浦であったという。ここは神宮にも増して御利益の高い場所とされており、参詣の順も一番にあげられていた。『奥の細道』の旅を終えた芭蕉は、元禄2年9月6日、大垣から曾良、路通と共に舟で揖斐川を下り伊勢に向った。木因と如行は途中まで同道して別れを惜しんだ。目的地はまず伊勢長島の大智院、そしてその先には伊勢外宮の遷宮式の拝観があった。
大智院は曾良にとっては正に実家も同然で師の芭蕉を初めて招くわけだから、かなり緊張もあったと思われる。
曾良日記によれば、
六日 辰尅出船。木因、馳走。越人、船場迄送ル。如行、今一人三リ送ル。銭別有。申ノ上尅、杉江ヘ着。予、長禅寺ヘ上テ、陸ヲスグニ大智院ヘ到。舟ハ弱半時程遅シ。七左・玄忠由軒来テ翁ニ遇ス。(以下略)
舟は木因が、持ち舟を出してくれたので自由に湊に止めたり、進路を変更することが出来る。木曾三川が合流する河口の中洲にできた輪中集落があり、これが長島である。
舟は木曽川を通って加路戸川に入り長島城のそばまでつけることが出来る。そこから大智院はすぐである。舟はぐるりと回る為、曾良は一足先に杉江で降り、島を横切って先に大智院に入りそこで芭蕉の到着を待っていた。それから舟は約一時間弱ほどで到着した。
曾良は七左と由軒を大智院に呼び対面させている。七左は吉田久兵衛豊幸で、通称を七兵衛門という長島藩士。松平良兼の婚礼の使者として越後の村上に行ったことがある。由軒は藩医の森如庵で俳諧仲間の玄忠である。曾良が「翁に遇す」という書き方から、いかにも誇らしい気持で芭蕉を紹介したようすが見て取れる。
7日も昨日に続き七左が八郎左と正焉たちを連れて来た。八郎左は藤田雅純で通称八郎左衛門という。長島藩留守居役で家老も兼務しており、俳号をといった。正焉は大島の郷士で廻船問屋の水谷彦大夫という。
連日のように俳席があり、多くの人の出入に気を遣った疲れが出たのか曾良は8日遂に体調を崩して臥ってしまった。しかし俳席へは四句出句しているというから相変わらず義理堅い人物である。