東京ふうが56号(平成31年冬季・新年号)

「旅と俳句」
平成二〇年 シルクロードの旅 天山北路

石川 英子

Ⅰ 西 安
1 – はじめに
2 – 出 発
3 – 西安市初日
4 – 西安近郊見学

5 – 秦始皇帝陵見学
6 – 九成宮醴泉銘の大碑
7 – 西安の俳句
Ⅱ 敦 煌
1 – 敦煌空港着 第一日目
2 – 莫高窟 鳴沙山 月牙泉雷音寺 第二日目
3 – 沙州市場
4 – 玉門関 陽関他の観光 第三日目
5 – 敦煌最後の晩餐
6 – 白馬塔他 第四日目
7 – 再見敦煌 柳園から列車の旅
8 – ウルムチ方面行寝台硬臥列車の旅
9 – 敦煌の俳句
Ⅲ 新彊ウイグル自治区
1 – ウルムチ駅の喧騒他 ウルムチ第日目 2月18日(月)曇
2 – 吐魯番観光 2月19日(火)快晴
3 – ウルムチ第三日目 2月20日(水)晴れ
4 – 再びの西安
5 – 帰国の日 2月21日(木)快晴
6 – 旅を振り返って

五、秦始皇帝陵見学

 

二月十二日(火)晴れ 西安三日目
今日はまとめて西安郊外の見学なので、九時過ぎにホテル前よりタクシーにて出発。十時前到着。一面の雪の中に果物屋、赤い袋を積み上げた土産物屋、人の集まるところ皆物売りと案内人だ。
始皇帝陵は、一九八七年兵馬俑と共にユネスコの世界遺産になった。
始皇帝は十三歳で即位し、成人後宮廷内での実権を掌握するや、十年間で周囲の国々を制圧し、中国で初めての統一王朝である秦を建国した。秦国は都を西から東へ四度遷都して、最後に都を咸陽に置いた。彼は二十二歳で政務を執り三十九歳で天下を平定して五十歳で亡くなった。彼は中央集権体制を確立し、法律、文字、度量衡を統一する等、以後の中国歴代王朝に多大な影響を及ぼした。地下宮殿は地下深く穴を掘り、銅を敷き詰め、棺を納め、珍宝が墓室を満たし、盗掘を防ぐ為にさまざまな仕掛けを設け、天井には太陽や月などの天文図を描き、底には水銀で川や海を作り、魚類の脂を使った燭台で墓室を照らしたと言う。地上四十七メートルの山を築き魔物を寄せつけぬと言われる松や檜等の常緑樹を植えて、入口から頂上迄真っ直ぐに石段が続いている。
秦の始皇帝が葬られる時、墓内の秘密を守る為に陵墓造営作業に従事した技術者は、始皇帝と共に生き埋めにされた。又始皇帝の生前その宮殿に侍った三千人の美女が葬儀に参加している時、秦二世からの命令に依り「子供を産んでいない女性が墓室を出るのは不吉」とし、そのまま生き埋めにしたとも言う。盗掘者は皆失敗して目的を果たせず、墓室は秘密の扉を今も尚、閉ざしたままなのである。
頂上の広々とした公園には、大きな「始皇帝の碑」が建立されている。又よくぞ登ったと思われる老婆が、雪の積もった吹きさらしの頂上の売店で、絵葉書や飾り物等こまごまとした土産を商っていた。
始皇帝の死後、思想の弾圧や使役等への国民の不満が高まり、統一王朝秦は三代十五年で滅亡してしまったという事である。紀元前二〇七年の陳勝、呉広が指導する農民一揆を契機にと言うのは日本史上にも似た時代が有る。

近年来、考古学院の関係者が秦の始皇帝陵に赤外線で試掘調査を行った。その結果は全く司馬遷が「史記」の中に書いた史実の通りである。司馬遷は始皇帝の死後数十年後の人物であるから正確な調査に礎いた記であったと思われる。

秦始皇帝兵馬俑抗
タクシーの運転手に駐車料金不要のレストラン前まで連れて行かれた。真冬は見学者が少ない為、日本語の案内人が走り寄って来た。一廻り百元だと言う。黙って見学するだけで良いと思ったが、あまりに熱心なので二十五歳位の女性にお願いした。
一九七四年、旱に悩む農民六人がいつもより大きな井戸を掘っている時、その中の楊志発氏が偶然発見した。楊氏の届け出を受け、考古学者達が試掘調査を行い、現在も発掘と復元が続けられている。


(つづきは本誌をご覧ください。)