「素十名句鑑賞」 16
蟇目良雨
(131)
ふるさとに近づく心末枯るる 昭和16年
「ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや」
室生犀星『抒情小曲集』
素十にとってふるさと茨城県取手郊外山王村は、犀星と同じように親しく無かったようだ。12歳で中学受験のために長岡へ離れて以来、もう36年が経ってしまった。大学教授という名誉ある地位にあっても近づきがたい気持を起こさせる原因に、昭和12年12月に父が、14年6月に母が死去したことが関係しているのかも知れない。異母きょうだいとの間に埋めがたい溝が出来てしまったようだ。
(132)
稻刈つて畦は緑に十文字 昭和17年
これぞ素十の客観写生俳句である。稲刈りを済ませた畦に残っている緑が、十文字に目に眩しい。畦の色も刈取り頃には黄ばんでいるだろうと普通は思いがちであるが、まだまだしっかりと緑色を残していたと断定する強さが素十の観察眼である。素十は言う、「自然は刻々変化する。己のこころも刻々に変わる。昨日見えなかったものが今日見えるかもしれない、自然は常に新しい。」
(133)
馬追の緑逆立つ萩の上 昭和19年
馬追虫は緑色のふっくらとした虫で、静かにすいっちょんと鳴く。鳴かないときは水平に草の葉に止っているが、鳴く時は尻を上げて逆立ちするようになっている。萩の葉に止らせると季重なりになってしまうと異論を聞きそうだが、素十は見たまま萩の葉の上に止まっている馬追を描いた。萩を置くことによって絵画的になったことを素十は計算していたと思う。逆立ちの一語が鳴いているさまを暗示しているのである。
(つづきは本誌をご覧ください。)