歳時記のご先祖様 12
本郷民男
─ 『燕京歳時記』 ─
〇 燕京歳時記と著者
『燕京歳時記』は、清朝末期に書かれた北京の歳時記です。つまり、中国の王朝時代最後の歳時記です。秦が中国を統一する前に、七雄と呼ばれる有力な諸侯がいました。その内で北東端を占めた燕の都がいまの北京で、当時は薊という名でした。明の永楽帝以後に、北京となりました。北京の別名が燕に由来する燕京です。 清朝(1612~1912)は、満州族による国です。そこで、清の文化には遊牧民の文化と、漢民族の文化が含まれていました。『燕京歳時記』の著者は満州族貴族の敦崇です。生没年は確かな文献がなく、不詳です。『燕京歳時記』の序文が光緒25年(1899)で、敦崇自身の跋文が光緒26年です。序によると、敦崇は敦惠の次男です。また本文の冒頭に、「長白 富察敦崇」とあります。長白は中国と韓半島の境の地名で、富察は満州族の八大貴族の一つです。つまり作者は富察敦崇ということです。
〇 独特の行事
同じような行事は面白くないので、変わった行事を見ていきます。1月19日を筵九と呼んで、皇帝が紫光閣で宴会を開き、演芸や武芸を観覧しました。紫光閣は紫禁城のすぐ西の中南海地区にあります。海になぞらえた大きな池の畔に、多くの建物があります。紫光閣は武器を展示し閲兵式に使われた建物です。
民間では白雲観を参拝しました。白雲観は道教の一つの全真教の総本山です。全真教の教祖の長春真人(1148~1227)の誕生日が、この日とされています。長春真人はチンギス・ハンから道教の教義と不老長寿の術を教えて欲しいと招かれました。70歳を超えていた長春真人は、そのために3年に及ぶ大旅行をして、従者が『長春真人西遊記』を残しました。シルクロード病患者が服用します。
打鬼というラマ教(チベット仏教)の追儺の行事が1月にありました。黄寺は15日、黒寺が23日、雍和宮が30日です。黄寺と黒寺は俗称で、瓦の色が黄色や黒です。しかも、黄寺と黒寺はそれぞれ二寺あって、ややこしいです。清朝はチベット仏教を保護したので、日本とは違う様相になりました。