銃後から戦後へ 18
東京大空襲体験記「銃後から戦後へ」その18
捨てる神あれば拾う神あり
鈴木大林子
前回で労務職と呼ばれる最下層(現在のJRにはこのような生命に危険のある仕事や極度に肉体を酷使するような仕事は一切行われていないので、これはあくまでも昔話として聞いて頂きたい。)から一段昇って掛職と呼ばれるサラリーマンの端くれに辿り着いて、ホッと一息つくと今度は退屈の虫という厄介な虫が騒ぎはじめました。何しろ仕事の大半はデスクワークですから勿論生命の危険などは全く無い、肉体労働と言えばせいぜい月に1回廻ってくる宿直の朝の掃除ぐらいのところ、仕事も特に頭や神経を使うようなこともなく極めて平穏無事な毎日を過しておりました。それでも困ったことといえば第一に生来の悪筆、これはまるで宿痾の如くに未だに付いて廻って悩ませられていますが、この時は幸い隣席に書道家が居て本局に提出する報告書などは快く代筆してくれました。二番目は計算能力、当時はパソコンは愚か電卓すら無く、手廻しの計算器はありましたが我が区には廻って来ず専ら算盤だけが頼りでしたが、登用試験の必要に迫られてやっと取った四級の資格も何の役にも立たず、計算は十回やれば十回とも違う答が出るという有様に見るに見兼ねた向いの席の会計係、この人は珠算一級の腕前でしたが、私が1時間掛る計算をたった5分で終らせてしまうのにはたゞたゞ驚嘆するばかりでした。
もう一つ大の苦手がコヨリ作り、コヨリと言っても今の若い人には解らないでしょうが、これは漢字で書けば紙縒、紙捻、紙燃などと書くように和紙のような丈夫な紙を短冊状に切ってよじり合せ、1本の棒状にしたもので、ホチキスなどというもののない時代は書類に錐で穴を開け、その穴にこれを通して綴ったものでした。契約係の私は書類作成が仕事の大半を占めていたのでコヨリは必要不可欠の事務用品なのですが、どこの文房具屋にも売っていません。自分で作るより仕方がないのですが、これがどうしても出来ません。周囲の人から見れば何故こんな簡単な作業ができないのか、馬鹿馬鹿しさを通り越して不思議な気がしたのでしょう。或る日、同僚の一人がコヨリを百本ばかり作って来て「これだけあれば君が転勤になるまで保つだろう。」と言うのでよく聞いてみると、「小学校5年生の娘に君の話をしたら可哀想だと言って一晩で作ってくれた。」と言うではありませんか。その時ばかりは、自分はどこか普通の人とは違う所があるのではないかと思いながら、普通の人なら誰でもできることができないなら、普通の人ができないことがひょっとしてできるのではないか、そいつを見付けよう、と思い立ったのですが、それ以来今日に至るまで幸福の青い鳥ならぬ人様の真似のできない能力を見付けることはできません。